偉     人     伝

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野 口 英 世 の 略 歴

明治9(1876)年11月9日

 野口英世 (のぐち ひでよ)。
 耶麻郡三ッ和村三城潟にて、産声をあげる。
 野口佐代助シカの長男で、清作と名付けられる。
 北は磐梯山、南は猪苗代湖、豊かな自然の中で成育する。

 16歳まで、生家で過ごす。  ネットで見学は、こちら。

大火傷を負った囲炉裏

明治11(1878)年

< 火 傷 >
 4月末、囲炉裏に落ちて大火傷を負い、左手の機能を失う。

明治16(1883)年

三ツ和小学校

 三つ和小学校に入学。

 母/シカは、入学に際して強く諭す。
  「左手に障害があるから農作業は無理なので、
   学問で生きなさい」


明治20(1887)年

 4月、尋常科4年に編入。

明治21(1888)年

磐梯山

 4月、成績が優秀だったため、「生長」に選ばれる。
 生長とは、学業の優秀な生徒が先生の代りに授業を行う役職。

 7月15日、磐梯山が噴火し、桧原湖五色沼などが出現する。

明治22(1889)年

猪苗代尋常高等小学校跡

 3月、三つ和小学校卒業。
 4月、主席訓導 (教頭)/小林栄に優秀な成績を認められ、猪苗代高等小学校に入学。
 当時、農民の子が進学するのは、珍しかった。 学費を援助した小林の目には、抜きん出た才能が見えたのだろう。
 期待に違わず、体操以外の成績は、すべて首席であった。
 なお、体操の欄は空欄であったという。
 箸が使えないため、弁当はいつも握り飯であった。

明治24(1891)年

 左手の障害を綴った作文が、小林を含む教師や同級生たちの心を打つ。
 清作の左手を治そうと、手術費用を集める募金が行われた。

明治25(1892)年

會陽医院跡(野口英世青春館)

< 手 術 >
 10月、友人たちの寄付金により、会陽医院で手術を受ける。
 医師/渡部鼎の執刀で、不自由ながらも左手の指が使えるようになる。
 この手術がきっかけで、医学の素晴らしさを知る。

大町交差点から七日町通りへ

明治26(1893)年

 3月、猪苗代高等小学校を優等として卒業。
 5月、薬学生として、会陽医院に書生として住み込む。
 手術をした医師/渡部鼎への弟子入り。
 約3年半にわたって医学の基礎を学ぶ。この時期に英語や仏語も学んでいる。
 渡部の友人であった高山歯科医学院(東京歯科大学)の血脇守之助と知り合う。

日本キリスト教団若松栄町教会

< 初 恋 >
 書生時代に、カトリック教会で洗礼を受けた。
 その教会で、6歳年下の女学生/山内ヨネに出会い、一目ぼれをする。
 後に、医師の父を継ぐため女医を目指して上京していたヨネと再会する。
山内よねの家  医師免許を取得したヨネは、帰郷してしまう。
 医師/森川俊夫と結婚し、会津若松で三省堂医院を開業した。
 初恋は、成就することはなかった。

明治29(1896)年

英世の決意文 英世の決意文

< 上 京 >
 9月、上京する。
 その際に有名な決意文を実家の柱に彫った。
  「志を得ざれば、再び此の地を踏まず

 10月、医術開業前期試験(筆記試験)に合格。
 11月、血脇守之助の後ろ盾で、高山歯科医学院の学僕となる。

明治30(1897)年

 5月、済生学舎に入学する。
 血脇の計らいで、帝国大学教授/近藤次繁による左手の再手術を無償で受ける。
 後期試験は実務があり、触診に支障があったからである。
 10月、医術開業後期試験に合格、21歳の若さで医師免許を取得する。
 当時の医術開業試験は、「前期3年・後期7年」と呼ばれるほどの難関で、30歳を過ぎても合格できない例は珍しくなかった。
 10月、高山医学院の講師となる。
 11月、順天堂医院に勤務する。
 しかし、医学界は学閥が支配しており、在籍中に研究に関わることができず、渡米を決めたという。

明治31(1898)年

 8月、当時、小説「当世書生気質」がベストセラーになっていた。
 主人公である医学生の名前が「野々口精作」だったため、「英世」と改名する。
 10月、世界的に有名な北里柴三郎が所長の伝染病研究所に、助手として勤務する。

明治32(1899)年

 4月、英語力をかわれ、来日したフレキスナー博士の案内役をする。
 これが、後の渡米に結び付く。

横浜海港検疫所

 5月、横浜海港検疫所の検疫医官補となる。
 横浜港に入港した「亜米利加丸」の乗員からペスト患者を検疫所として初めて発見した。
 現在は、長浜野口記念公園として整備され、野口英世のレリーフ像や細菌検査室などが保存されている。

 この功績により、北里柴三郎の推薦で国際防疫班に選任される。
 10月、清国/牛荘(ニューチャン)の国際予防委員会中央医院に赴任し医療業務に就き、これが世界へ飛躍する第一歩となる。

明治33(1900)年

JR猪苗代駅前広場

 義和団の乱により清国の社会情勢が悪化したため帰国する。

< 渡 米 >
 12月5日に横浜より亜米利加丸で出航、12月30日にフィラデルフィアへ到着。
 フレキスナー博士を訪ねる。

明治34(1901)年

 11月、フレキスナー博士の助手として与えられたテーマ「蛇毒の研究」を発表する。
 同大学の理事/サイラス・ミッチェル博士に絶賛され、米国/医学界で名が知られる。

明治35(1902)年

 10月、ペンシルベニア大学病理学の助手となる。

明治36(1903)年

 10月、デンマーク/コペンハーゲンの血清学研究所に、1年間の留学。
 カーネギー大学の物理学者アーレニウス・マドセンに師事し、連名で論文を執筆する。

明治37(1904)年

 10月、米国に戻り、ニューヨーク/ロックフェラー研究所に移籍し、一等助手となる。
 野口の研究ぶりを見た所員たちは、
   「日本人は、いつ寝るのだろうか?
と驚愕したと云う。

明治40(1907)年

 6月、ペンシルベニア大学の名誉学位/修士を受ける。
 ロックフェラー研究所の準正員となる。

明治44(1911)年

 この年、「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」で、世界の医学界に名が知られる。
 2月、論文を提出し、京都大学医学博士の学位が授与される。
 4月、メリー・ロレッタ・ダージス・野口と結婚する。

大正2(1913)年

 9月、ヨーロッパ各国へ講演を行なう。
 講演をした国々から、勲章が贈与されている。

大正3(1914)年

 4月、東京帝国大学から、理学博士の学位を授けられる。
 7月、ロックフェラー研究所の正員に昇進する。
 この年のノーベル医学賞候補にもなった。

大正4(1915)年

 4月、帝国学士院から、恩賜賞が授与。
 この年に2度目のノーベル医学賞候補にもなった。

英世が歓迎を受けた翁島駅 < 帰 国 >

 9月5日、年老いた母へ会いに、一時帰国する。
 地元はもとより、全国的にも熱狂的に迎えられた。
 会津では常に母親と一緒にいて、東京や関西への旅行にも出かけた。
 15年ぶりの帰国であった。 そして最後の帰国となった。
 11月4日、横浜港から渡米。

大正7(1918)年

 6月、ロックフェラー財団の意向を受け、エクアドル/グアヤキルへ黄熱病の対策に行く。
 到着して9日目に病原体を発見、ワクチンが作られ南米での黄熱病は収束した。
 エクアドル陸軍名誉軍医監および名誉大佐を授与。
 グアヤキル大学名誉教授と、キトー大学名誉教授も授与。
 3度目のノーベル医学賞の候補となる。
母/シカの墓
< 母 の 死 去 >
 11月10日、母/シカが死去する。
 享年66歳。 「貞賢院産恵精安清大姉」
 農作業をしながら、産婆を副業としていた。
 産婆が免許制となり、免許取得が義務付けられた。 読み書きのできないシカは、寺の住職に頼み、必死に読み書きを覚えた。
 瓜生岩子の協力も得て国家試験に合格、生涯にわたっ産婆を続けた。
 英世の天才的な貢献は、母による影響が大きいといわれている。

大正8(1919)年

 12月、黄熱病研究のため、メキシコに渡る。

大正9(1920)年

 4月、黄熱病研究のため、ペルーに渡る。
 この年、3度目のノーベル賞候補となる。
 国立サン・マルコス大学医学部から名誉医学博士号を授与。
 フィラデルフィアのジョン・スコット・メダル名誉章を授与。

大正10(1921)年

 ブラウン大学から名誉理学博士、エール大学から名誉理学博士を授与。

父/佐代助の墓

大正12(1923)年

 7月3日、父の佐代助が死去する。
 73歳。 「顯院逸産開運清居士」

 11月、黄熱病研究のため、ブラジルに渡る。
 日本の帝国学士院会員となる。

大正13(1924)年

 フランス/レジオンドヌール勲章を受章。

大正14(1925)年

 パリ大学の名誉医学博士を授与。

昭和2(1927)年

 黄熱病研究のためアフリカへ出張し、11月にイギリス領ガーナのアクラに到着する。

昭和3(1928)年

 フランスより、防疫功労金牌が授与。
野口英世夫妻の墓
< 死 去 >
 5月21日、研究の対象である黄熱病を発症し、死去する。
 6月15日、妻の眠る米国/ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。 51歳。 墓碑には、
  「ロックフェラー研究所/医学正員の英世は、科学への献身を通して、人類のために生き、人類のために死んだ
と刻まれていると聞く。

 昭和25(1950)年、二十三回忌に際し、長照寺に遺髪墓が建立。

平成4(1992)年

 2月13日に発見された小惑星に、博士の名前が命名された。
   ・登録番号9964番
   ・名称「Hideyo nguchi」

野口英世の里局

平成16(2004)年

 9月13日 「翁島郵便局」が「野口英世の里郵便局」と改称。

 11月1日 野口英世が、日本銀行券のE号千円札の肖像になる。

平成18(2006)年

 野口英世アフリカ賞の創設が提案される。
 以降、5年ごとに表彰などが実施される。
  「アフリカに関する医学研究及び医療活動を顕彰することにより、アフリカでの感染症等の疾病対策の推進に資し、もって人類の繁栄と世界の平和に貢献することを目的 〜

 ≪第1回 野口英世アフリカ賞 受賞者 平成20(2008)年≫
  [医学研究部門] ブライアン・グリーンウッド博士(英国)
  [医療活動部門] ミリアム・ウェレ博士(ケニア)

 ≪第2回 野口英世アフリカ賞 受賞者 平成25(2013)年≫
  [医学研究部門] ピーター・ピオット博士(ベルギー)
  [医療活動部門] アレックス・G・コウティーノ博士(ウガンダ)

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