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ご   縁   の   あ   る   地

斗南/日新館と、 そ の 後    

<曖昧な点あり 写真や住所などは現在のもの> .

 藩校/日新館は、戊辰の役でに略奪・放火され焼失してしまったものの、斗南藩へ移る際、市中に残存した漢籍や和書などの蔵書を運び込み、未来を見据えて新たに洋書も購入し、日新館の再開に着手する。

 保科正之公は、寛文4(1664)年に日本初の民間人による郷学校「稽古堂(けいこどう) (庶民の教育機関)」が開校するや税金を免除し大いに策励、後に藩校/日新館へと繋がる。
 しかし、斗南の地には会津のように城下町などなく、藩士たちは広範囲に点在しており、藩庁の置かれた円通寺近くの横迎町/立花屋文左衛門の倉庫を借り受けて斗南藩校/日新館を開校し全寮制も検討したが、財政的に遠く及ばず、領内各地に支館 (分校) を設ける手立てしかなかった。
 その支館 (分校) ですら、初めに藩庁を置いた五戸と藩庁を移した田名部の近くには設置できたものの、財政的から他の地には実現できなかった。
 待ち切れない各地の藩士たちは、自ら私塾 (郷学校) を開設する。
 この私塾が、斗南藩士の子弟のみならず地元民の子弟らにも門戸を開いたため、思わぬ幸運をもたらす。 この地の識字率は極めて低かったが向学心がなかった訳ではない。
 勉学の機会を得た地元の子弟らも勉学に勤しみ、「会津塾」と称すようになる。
 そもそも地元は寒い地方、一人では生きられずお互い助け合う心優しい人々であり、いつしか「会津のゲダカ」「会津のハド」との嘲笑は消え去り、「会津さま」 と礼讃するまでになった。
 学制/教育法令で小学校が開校されると登校率の高さへと繋がり、地元民から続々と優秀な人材が輩出されることになる。
 明治6(1873)年7月に鯵ヶ沢小学校が開校しても、北原房夫の「会津塾」は生徒が減るどころか、塾と小学校の両方に通うだけでなく、明治33(1900)年に閉熟するまで「会津塾」だけに通う者が数多くいたとの逸話も残る。

 明治4(1871)年、わずか1年数ヶ月で斗南藩は消滅した。
 多くの藩士たちは会津へ、東京へ、大阪・京都へと去った中、貧しいながらも心の温かい地元民と共に、未来を拓こうと残留する者も少なくなかった。
 明治5(1872)年の学制/教育法令により翌年に下北地方にも4校の小学校が設立されると、いずれも初代校長は斗南藩士である。
  ◇ 大畑小学校  初代校長/飯田重義
  ◇ 大間小学校  初代校長/山内平八
  ◇ 田名部小学校 初代校長/沖津醇
  ◇ 川内小学校  初代校長/井沢信
 その他にも多くの藩士が訓導などに就き、その後の開校にも初代校長など数多くいる。
 多くの会津藩士たちが教職に就いたのは、もちろん極貧な生活苦から逃れるためでもあったが、残りの人生を賭してまで教育に尽力した理由は別にあった。
 藩校/日新館などで当たり前のように教育を受けた者にとって、斗南藩に移るや全ての地域において読み書きのできる人は殆どおらず、想像を遥かに超える衝撃を受けた。
 地域振興には教育が必要であり、それを行うのが天命であると確信したからである。
 そして、向学心に燃える地元民らも、それに応えた。

田名部小学校

 斗南藩の救貧院跡。 [写真]
 明治6(1873)年7月10日、第七学区一六中学区四番小学が、斗南藩士/沖津醇を初代校長に就任し開校。
 明治7(1874)年、田名部小学と改称。
 明治19(1886)年、田名部尋常小学校と改称、田名部高等小学校を移設し併設。
 明治25(1892)年、田名部尋常高等小学校と改称。
 昭和22(1947)年、田名部町立田名部小学校と改称。
 昭和29(1954)年、第一田名部小学校と改称。
 ▲(むつ市柳町2-7-1)

大畑小学校

 明治6(1873)年、初代校長として斗南藩士/飯田重義が就任し開校。

 ▲(むつ市大畑町伊勢堂1-1)


川内小学校

 明治6(1873)年、初代校長として斗南藩士/伊沢信が就任し開校。

 ▲(むつ市川内町休所5-1)


大平小学校

 斗南藩士/菊地入江が初代校長に就任。
 ▲(むつ市大平町8-6)

大間小学校

 明治6(1873)年7月1日、初代校長に斗南藩士//山内平八が就任し、第七大学区第一六区六番小学として開校。
 明治7(1874)年、大間小学に改称。

 ▲(大間町大字大間字狼丁37-2)


奥戸小学校

 明治7(1874)年6月20日、初代校長の斗南藩士/奥川左京が、自宅の一部を仮校舎として奥戸小学を開校。

 ▲(大間町大字奥戸字館ノ上96-69)


下風呂小学校  《閉校》

 明治7(1874)年10月30日、初代校長に斗南藩士/荒木剛が就任。
 その後、33年間も少年たちの教育に尽力。
 平成28(2016)年、下風呂小学校・易国間小学校・蛇浦小学校が統合され、風間浦小学校となる。
 ▲(風間浦村下風呂甲平ノ上18-1)

野辺地小学校

 明治5(1872)年の学制/教育法令を受け、斗南藩士/土屋勝之進・安積泰助・佐瀬義之助・堀恒助が開塾した「会津塾」と、地元の5つの寺子屋が合併し、野辺地の小学校設立の準備に入る。
 明治6(1873)年9月27日、第七大学区第十六中学区二番小学として開校し、首座 (校長) に土屋勝之進、訓導 (教諭) に斗南藩士7名が就任する。
 明治7(1874)年、野辺地小学と改称。
 ▲(野辺地町字寺ノ沢42-4)

青森小学校 (長島小学校)

 明治6(1873)年7月28日、第七大学区一四中学区一番小学として開校。
 開校時の訓導(教師)8名の内6名が斗南藩士。
 明治7(1874)年、青森小学校に改称。
 昭和22(1947)年4月1日、長島小学校に改称。

 ▲(青森市長島3丁目8−1)

三戸小学校

 明治6(1873)年7月31日、第八大学区第一七中学区三番小学 (翌年に第七大学区) が旧三戸代官所を仮校舎にして、生徒数80名で開校 (同年12月には250名に増加)。
 斗南藩士/渡部織之助・虎治郎の父子が訓導に就任。
 明治7(1874)年、三戸小学校に改称。
 2代/校長に、斗南藩士/大石友二郎が就任。
 明治24(1891)年、渡部虎治郎が3代/校長に就任。
 7代校長/戸狩嘉津治も斗南藩士。
 大正8(1919)年、大庭恒次郎が9代/校長に就任し、息子/茂も16代/校長に就く。
 13代校長/井口信雄、14代校長/田島信雄 (旧姓/星野) も斗南藩士の子孫。
 ▲(三戸町梅内字権現林1)

七戸小学校

 明治5(1872)年8月15日、第七大学区第一六中学区一番小学として開校。
 明治7(1874)年、七戸小学校に改称。
 後に、斗南藩士/大石友二郎が校長に就任。

 ▲(七戸町字上町野130)

百石小学校

 明治10(1877)年1月21日、百石小学が開校し、斗南藩士/丸山主水が首座 (校長) に就任。
 丸山主水は、明治10(1877)年に百石村の寺子屋から請われて師匠に就いていた。
 丸山の倅/茂が2代目/校長に就任。
 孫/董も3代目/校長に就任。
 ▲(おいらせ町字牛込平20-1)

小泊小学校

 明治7(1874)年、郷倉を校舎とした簡易小学校/小泊小学校が創立、白虎隊士/星野義信が首座 (校長) に就任。
 明治45(1912)年、小泊尋常高等小学校に改称。
 昭和16(1941)年、小泊国民学校に改称。
 昭和22(1947)年、小泊村立小泊小学校に改称。
 平成17(2005)年、 町村の合併により中泊町立小泊小学校に改称。
 ▲(中泊町大字小泊字砂山1076-1)

第七大学区第十六中学区三番小学 (三本木小学校)

 明治6(1873)年7月1日、澄月寺を借りての創立に飯河小膳(光義)が関与。
 詳細調査中。 [史料]

《余談》
 地元民の向学心・学殖が増えるにつれ、教養を持ち合わせているのに、長賊らによる故なき冤罪で悲惨な状態に陥れられ、更なる挙藩流刑で苦労に苦労を重ねながらも根をあげず、健気に家族を支える姿を目にし、「嫁にするなら会津の娘」と衆望されるようになったという。


《逸話》
 むつ市の、とある小学校を訪ねた。
 土曜日だったので、生徒たちは登校していない。
 訪問を終え、静けさに包まれた校庭を横切り校門を出ると、道路の反対側を歩いていた少年たち4人が大きな声で挨拶をしてきた。
  「知らない人には 近づかないように」、
  「知らない人には 声をかけられても返事をしないように」
と教えられていると伝え聞く昨今、元気な子供の声は清々しい。
 ここの生徒かと問うと、声を揃えて 
  「違う
と言う。
 少し間があって、
  「ここの卒業生です
と、天真爛漫な答えが返る。
 2、3分ほど会話を楽しみ、別れた。
 心地よい子供たちが育っている素敵な地の空が、晴れやかに輝いていた。


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