偉     人     伝

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名 君 / 蒲 生 氏 郷 公

 藤原氏の一族/藤原秀郷を祖とし、近江国蒲生郡近辺で勢力を築き蒲生氏を名乗った蒲生惟俊を家祖とする。
 室町時代に近江国の守護大名/六角氏に仕え、父/賢秀は仕えた六角承禎が織田信長に滅ぼされると織田氏に仕える。
 敵の旧臣の子でありながら、織田信長の娘婿に迎えられ勢力を伸ばし、本能寺の変後は豊臣秀吉政権下で更に才能が開花し、一族として最も秀でた武将となる。
 所縁の城の、
  近江国/日野城 (誕生) → 美濃国/岐阜城 (人質) → 伊勢国/松ヶ島城
   → 伊勢国/松坂城  → 陸奥国/鶴ヶ城
を経て、信長の推察通りコ川家康、毛利輝元に次ぐ92万石の会津藩主となる。
 戦いでは常に先陣を切って敵に突入する勇猛果敢な武将として知られ、和歌や宗教などにも造詣が深く、茶人として「利休七哲」に名を残している。
 妹/三条殿 (於とら) と、信長の6女/三の丸殿 (正室/冬姫の妹) を養女にして秀吉の側室に送り込み、娘/籍姫を前田利家の次男/利政の正室にするなど閨閥も築いている。
 各赴任地での基盤整備は今なお讃えられており、特に会津藩でも その後に発展する産業の基礎を構築した。
 もし長生きしていれば、その後の日本史は大きく変わっていたと誰もが納得するほど、文武両道に長けていた武将であった。
 資質を恐れた秀吉らに暗殺されたとの説もあるが、不慣れな地で伊達政宗と家康に挟まれ対峙し、心身の疲労が極致に追い詰められたがゆえに寿命を縮めたのかも知れない。

弘治2(1556)年

蒲生氏郷公産湯の井戸

 六角承禎の重臣で日野城主/蒲生賢秀の3男 (嫡男) として、母/於きり (後藤播磨守の娘) との間に、日野城で誕生
 幼名は鶴千代と名付けられる。
 初名 (元服名)/賦秀(ますひで) (教秀(のりひで)とも) を経て、氏郷を名乗る。
 家族構成については、こちら。

永禄11(1568)年    13歳

岐阜城

 9月
 上洛に先立ち京都へ通じる近江・伊勢の平定を着手した織田信長に、主君/六角承禎が観音寺城の戦いで惨敗し甲賀郡に逃れ (後に降伏)、父/賢秀は信長に降伏した。 臣従の証として鶴千代 (氏郷公) が人質となり、岐阜城に送られる。
 信長は一目見るなり才能を見抜いて大いに気に入り、「ただものではない、婿にする」といったと伝わる。
 「蒲生が子息目付常ならず 只者にては有るべからず。我婿にせん」。
瑞龍寺僧堂  稲葉一鉄が小姓らに戦話をした時、夜も更けて居眠りをし始める小姓らと違い、目を輝かせて真剣に聞く鶴千代 (氏郷公) をみて、「将来、1百万石の大名になるだろう」と信長が つぶやいたという。
 武芸の教育を受け、岐阜/瑞竜寺の禅僧/南化玄興に師事し儒教や仏教などを学び、才覚を磨き上げる。

永禄12(1569)年    14歳

 織田信長みずから岐阜城で元服の烏帽子親となり、鶴千代から忠三郎賦秀 (氏郷公) に改名する。
 その後は、織田氏の一門として手厚く扱われる。

 8月26日〜10月 4日
 信長に従い、北伊勢攻略の父/賢秀の下で初陣する。
 北畠具教・具房との大河内城の戦いで武功を挙げる。
 50日ほどの籠城戦の後、北畠具教らは降伏する。


 信長の次女/冬姫 (12歳) と祝言をあげる。

元亀元(1570)年    15歳


 北伊勢攻略の戦功により、帰国が許される。
 冬姫を伴い、故郷の日野城へ帰る。

 4月
 父/賢秀と共に柴田勝家の与力となり、兵1千騎を率い朝倉を攻め、武功を挙げる。

 5月
 浅井長政の謀反で窮地に陥った信長を日野城に迎え入れ、岐阜への帰還を護衛する。
 父と共に知行が安堵され、5,510石の領地も加増される。

 6月〜7月
 姉川の戦い (野村合戦) に参陣する。

元亀2(1571)年    16歳

 5月
 第一次長島侵攻 (長島一向一揆) に参陣する。

天正元(1572〜1573)年    17歳

 4月〜8月
 鯰江城の戦い、小谷城の戦いなどに参陣する。
 8月20日、朝倉義景が落城と共に自刃。
 9月 1日、浅井長政が落城と共に自刃。

天正2(1574)年    19歳

 9月〜10月
 第二次長島侵攻 (長島一向一揆) に参陣する。

天正3(1575)年    20歳

 5月21日
 長篠の戦いに参陣し、武功を挙げる。
 父/賢秀が、日野城主のまま織田信長/直属の旗本となる。

天正4(1576)年    21歳

 父/賢秀が織田信長から築城中の安土城の留守居役を命じられ、父に代わって日野城主となる。


天正6(1578)年    23歳

10月
 有岡城の戦いに兵を率いて従軍する。

天正7(1579)年    24歳

 4月29日
 有岡城の戦いで、塚口砦に布陣する。

天正9(1581)年    26歳

 9月
 第二次天正伊賀の乱に兵を率いて従軍し、平楽寺を陥落させるなど武功を挙げる。

天正10(1582)年    27歳

 6月2日
 本能寺の変で織田信長・信忠の親子が自刃し、明智光秀が安土城に向かっているとの報を受ける。
 最初は城を枕に討死を決意したが逃走する城兵が多く、まず信長の妻子を保護するのが忠節と判断し、手勢5百騎で日野城に入り籠って光秀に対抗する。
 秀吉が京に戻ったとの報で光秀は日野城攻めを中止し、山崎の戦いで戦死した。
 氏郷公は直ぐに京都に赴き、秀吉に妻子の無事を報告する。
 激賞した秀吉から即座に3千石が与えられ、27日に開催された清洲会議で1万石の加増を受けるなど、秀吉の信任を勝ち得た。

年末
 家臣/布施忠兵衛に嫁いでいた妹を離縁させ、家臣/関一政に嫁がせる。
 一政は、翌年に伊勢/亀山城主となる。

天正11(1583)年    28歳

 賤ヶ岳の戦いに兵を率いて従軍する。
 この戦いに勝利し、織田信長の継承地位を決定づけた秀吉から、亀山城を与えられる。
 亀山城には、関一政の父である家臣/関盛信を配置する。

(この年)
 嫡男/鶴千代 (後の秀行公) が誕生する。

天正12(1584)年    29歳

 羽柴 (豊臣) 秀吉に仕え、小牧・長久手の戦いに兵を率いて従軍する。

 3月
 峰城攻め。

 4月
 戸木城攻め。

 4月17日
 父/蒲生賢秀が死去。 享年51歳。

松ヶ島城

 5月
 加賀野井城を攻略し、籠城衆を殲滅する戦功を挙げる。
 戦後、6万石から12万3千石に倍増され伊勢国/松ヶ島城主 (松坂市) へ転封する。
 父の葬儀のため、着任は6月13日。
 秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。

 8月14日
 菅瀬合戦では敵の侵入の銃声を聞き、軍勢も揃えず勇んで松ヶ島城外に打って出たため狙撃され、鯰尾兜に弾丸が3発もあたるも九死に一生を得ている。

天正13(1585)年    30歳

 3月10日
 紀伊攻めに兵を率いて従軍し、紀州の雑賀衆・根来衆を制圧する。
 大阪にてオルガンティノからキリスト教の洗礼を受ける (前年とも)。
 クリスチャンネーム「レオン」。

 3月24日〜4月22日
 第二次太田城の戦いに兵を率いて従軍する。
 ※羽柴秀吉は、同年7月に関白、9月に豊臣秀吉に改名。

 7月
 秀吉が関白になったことから、賦秀の「秀」の字が下にあることを遠慮して、家祖/藤原秀郷の「郷」をとって「氏郷」と改名する。

 8月24日〜翌年4月22日
 佐々成政を討伐する富山の役 (佐々攻め、越中征伐とも) に兵を率いて従軍する。
 成政が早々に降伏したため、大きな合戦はなかった。

天正14(1586)年    31歳

 従四位下・侍従に任じられる。

天正15(1587)年    32歳

 6月19日
 豊臣秀吉により、バテレン追放令が発せられる。
 しかし、氏郷公が棄教した様子はなく、会津転封には家臣/ジョバンニ・ロルテス (日本名/山科勝成) も会津入りし、その後もロルテスを団長とした遣欧使節団を4回も派遣している。
 ロルテスは、イタリア人/聖ヨハネ騎士団出身の赤髪碧眼な戦国武将で、ローマで大砲の買い付けをおこない、日本に複式簿記を伝えた人物でもある。
 会津へ移封後にもキリスト教を伝え広めた (容認?) ため、次の藩主/加藤藩政で加藤明成公弾圧に苦慮している。

〜 9月9日
 九州攻め (九州平定) に兵を率い九番隊として従軍する。
 熊井越中守が籠る堅固な岩石城の攻略を自らかって出て、前田利長隊と共に1日で落とす武功を挙げる。
 本姓として羽柴姓を下賜される。

天正16(1588)年    33歳

 4月15日
 正四位下・左近衛少将に任じられる。

松坂城

(この年)
 伊勢湾に面した松ヶ島は城下町として発展性がないと判断し、飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で縄張りし、新たに松坂城を築城する。
 寺院を町の外側に配置し、一気に多くの敵兵が攻め込めないように町筋を直線ではなく要所に角を設け、松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させ、短期間に城下町を完成させる。

天正17(1589)年    34歳

(この年)
 秀吉が造営中であった方広寺大仏殿に、近江から切り出した大石を運び込む。
 二間四方もあり、石垣の中で最大の石とのこと。
 [逸話]

天正18(1590)年    34歳

 2月〜7月
 小田原征伐 (小田原攻め) に主力軍として兵4千騎を率いて従軍する。
 出陣に際して、討死を覚悟して肖像画を残している。
 攻撃軍の右軍として韮山城を落とした後、小田原城包囲軍に参加する。
 出陣時の虫の知らせか、7月2日夜半に敵将/太田氏房のら夜襲を受け、近くにいた北川平左衛門の甲冑を借り、たった一人で敵兵を倒しながら敵の背後に回り生き延びた。

 8月 9日
 奥州仕置にて、突然、伊達政宗から没収した会津藩42万石 (会津四郡・南仙道五郡) への転封が命じられる。
 東国の目付役として、政宗や徳川家康の監視を託されたといわれている。
 その日の夜、家臣/山崎家勝が大変な出世に涙ぐんでいるものと思い声をかけると
  「大領でも田舎にあっては本望を遂げられぬ、
   小領でも都に近ければ天下を狙えるものを

と、落涙し続けたという。 複雑な心情があったに違いない。

 取り巻く環境は、長く落ち込んでいる状況ではなかった。
 表面上はともかく、領地を取り上げられた政宗が面白いはずもなく、刺客を送り込んだり、一揆を裏で扇動したり、藩領の境界をめぐって度々対立する。
 まず、領内の守りを固めるべく、重臣を支城に配置した。
  ◇ 猪苗代城  蒲生郷安   → 町野繁仍
  ◇ 阿子ヶ島城 蒲生郷成
  ◇ 塩川城   蒲生頼郷
  ◇ 藤倉山城  蒲生忠右衛門
  ◇ 津川城   北川平左衛門
  ◇ 長沼城          → 蒲生郷安
  ◇ 南山城   小倉行春
  ◇ 伊南城   蒲生郷可
  ◇ 白川城   関一政
  ◇ 須賀川城  田丸直昌
  ◇ 二本松城         → 蒲生郷成
  ◇ 大槻城          → 蒲生忠右衛門

<※功績のあった家臣に蒲生姓を与えていた>
  猪苗代城 安子ヶ島城 藤倉山城 津川城 長沼城
  南山城 伊南城 白川城 二本松城

 11月 2日
 10月16日に陸奥国陸前で勃発した葛西大崎一揆を鎮圧するため出陣する。

 11月15日
 一気に名生城を攻撃し陥落させて、兵5千騎を入城させ籠城する。
 極寒の経験がない藩兵の士気は挙がらず、自ら素肌に甲冑を着て鼓舞したという。
 一揆方に与えた政宗直筆の檄文を入手したため、秀吉に密書を送る。
 遅れて到着した政宗から酒席に招かれたが、暗殺の企てを察知した佐久間勝之たちの機転で辛くも難を免れる。
 翌年、伊達政宗は秀吉の疑いから逃れるため、葛西大崎一揆を鎮圧する際、一揆を煽動していた証しを消すため撫で斬りしている。

(この年)
 父/賢秀の菩提を弔うために、恵倫寺を創建する。

天正19(1591)年    36歳

 1月11日  会津/黒川に帰着。

 1月27日  上洛のため二本松城 (会津/黒川?) を出立。

 3月13日  陸奥国糠部郡で勃発した九戸政実の乱の鎮圧を命じられる。

 6月17日  九戸への討伐のため、京より会津/黒川に帰着。

 7月27日 (24日とも)
 九戸政実の乱を鎮圧するため、藩兵23,000を率いて若松を出発する。

 9月1日〜9月4日
 九戸政実の乱を鎮圧する。
 この乱以後は、秀吉政権に対する組織的に反抗なくなり、天下統一が完成する。
 養子/源秀院 (於武の方) が、南部信直の息子/利直に輿入れする。
 本拠地を南方の盛岡に移す氏郷公の提言を受け、信直は盛岡城を築いた。

10月
 10月13日、黒川城へ凱旋帰城。
 政実の乱鎮圧の戦功により、73万4千石に加増される。
 後の検地で92万石であることが判明。
 コ川家康、毛利輝元に次ぐ3番目の知行高となり、大大名にまで上り詰める。

11月
 加増の礼をするため、上洛する。

12月
 12月28日、従三位宰相に任じられ、参議に列する。
 朝鮮出兵の命を受け、準備のため帰国する。

(この年)
 利休七哲に数えられ茶の湯にも秀れ秀でていた氏郷公は、秀吉の怒りに触れ切腹させられた千利休の次男/千少庵に累が及ぶことを避けるため、会津/黒川にてかくまう。
 九戸への討伐のため会津に向かう一団に紛れ込ませ、6月17日に入府させた。
 千家が茶の湯の世界から追放され、利休の茶道が途絶えるのを惜しんでのことだった。
 茶湯に造詣があり、「利休七哲 (武将の弟子7人」の1人に数えられていた。
 「蒲生氏郷、高山右近、細川三斎、芝山監物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部」
  ※古田織部の代わりに織田有楽の説もある。
会津武家屋敷の麟閣 鶴ヶ城の麟閣  その後、千家復興を秀吉に働きかけ続け、文禄3(1594)年に「少庵召出状」で許され、今の三千家 (表千家・裏千家・武者小路千家) へとつながる。
 少庵の茶室は、復元された麟閣鶴ヶ城に、再現された麟閣武家屋敷にある。

天正20(1592)年  37歳

 2月2日、諏方社に知行を寄進。
 3月、豊臣秀吉に従い、肥前国/名護屋に出陣。
 6月〜
 6月1日、黒川城や城下町の本格的な整備を命ずる。
 出身地/日野の「若松の杜」を偲んで、町の名を「黒川」から「若松」に変更する。
  (※ 小さな松の木が群生していた景勝から既に呼ばれていたとの説も)
 なお、前任地の「松坂」の「松」も同様である。
 7層の天守を持つ居城の改築と、町割り (縄張り) に着手する。
 観音寺金剛寺自在院実相寺清林寺本光寺弥勒寺融通寺蓮華寺などが新たな町割りで現在地に移転した。
  観音寺 金剛寺 自在院 実相寺 清林寺
  本光寺 弥勒寺 融通寺 蓮華寺
 商業政策を重視した城下町の開発も推し進める。
 まず、旧領の日野・松阪の商人を招聘し、定期市を開設、楽市楽座をの導入した。
起き上がり小法師 (おきあがりこぼし)  手工業を奨励し、農業においては特産品の普及を推進し、会津藩の発展の礎を築く。 天守閣の瓦を焼くのに連れて来た焼物師から本郷焼へと発展する。
 民芸品/起き上がり小法師は、義父/信長のダルマ信仰に倣い作られた。
 「漆器製法伝習所」も創設。

 朝鮮出兵 (文禄の役) のため肥前国/名護屋への出陣は、戦局が和平交渉に入っており、出兵の待機状況であった。
 若松から名護屋へ赴く途中、近江国武佐で故郷/日野を偲んで、歌を詠んでいる。
  「思ひきや 人の行方ぞ 定めなき 我ふる郷を よそに見んとは
  「はるばると 思ひし我ぞ けふははや 心のままの 都いりして
  「おさまれる 君が御代とて みよしのの 花もちらさで 秋風ぞ吹[資料]
 しばらくすると、陣中にて体調を崩す。
 その後に病に伏す一因として、精神的な面があったと想うのは考えすぎであろうか。
 秀でた氏郷公を恐れた秀吉が京より遠ざけたとの説も、あながち否定できまい。

文禄2(1593)年     38歳

 陣中にて、初めて吐血する。
 この時は、容態を持ち直す。

 6月13日(15日とも)
 望楼型七層に改築した天守閣が完成し、幼名「鶴千代」と家紋「舞鶴」にちなんで、城の名を「鶴ヶ城」と改める。

 8月
 娘を前田利政へ嫁がせる。

11月20日
 体調が悪化し静養するため、若松に帰国する。
 下血する。
妙法寺

(この年)
 伊達正宗公の会津侵攻により破壊された妙法寺へ寺領を与え、現在地に再建。
 城下町に六斎市を開く。


文禄3(1594)年     39歳

伏見桃山城

正月
 伏見城の完成祝いのため上洛する (2月8日)。

 3月
 吉野山の花見において、豊臣秀吉に随行する。

 4月
 完成したばかりの蒲生屋敷へ、秀吉が返礼に訪れる。

 5月11日
 母/於きりが死去。 同月18日に成願寺へ埋葬。

 7月
 領内高目録を作成。

11月
 秋には快復し、秀吉を含め諸大名を招き、大宴会を催す。

文禄4(1595)年    40歳

 病状が悪化したため、秀吉は自らのお抱え医師/曲直瀬道三を派遣し、前田利家や徳川家康にも名医を派遣するように命じる。

 2月 7日
 治療も空しく、家康や利家の見守る中、 京都伏見の蒲生屋敷にて死去。
 最期を看取ったのは高山右近とも。
 享年40歳。
 戒名は、昌林院殿高岩宗忠大居士。
 キリシタン大名であり、洗礼名は、レオン (レオ飛騨守)。
 墓所は、大徳寺黄梅院(非公開)、興徳寺(遺髪、分骨)、信楽院(遺髪塔)にある。

信楽院 興徳寺 大徳寺黄梅院

 あまりにも突然に死去したため、秀吉が才気を妬み毒殺したとの噂が出る始末だった。
 秀吉は氏郷公を恐れていた節がある。
  ◇「都の近くに置いておくわけにはいかぬ」
  ◇「1百万の兵を操れるのは、氏郷しかいない」
などと側近に漏らしていた。
 また、次の天下人について聞いたところ、あっさりと答えたという。
  ◇ 養子/秀次 (秀吉の姉の長男) は、愚か者で人望がない
  ◇ 家康は、ケチで人望がない
  ◇ 前田利家だろうが高齢で天下人になれなければ、我が得るだろう
 しかし、秀次・利家・家康よりも先に早世してしまった。
歌碑  毒殺説は、秀吉の意を汲んだ石田光成説、伊達政宗説、上杉景勝の重臣/直江兼続説などもある。

 辞世の句
  「限りあれば 吹かねど花は 散るものを
         心 みじかき  春の山風

    まだまだ武将として円熟した矢先の死。
    悔いが こもっている歌である。

 家臣を大切にした武将で、諸大名からの人望も厚かった。
 「家臣への俸禄と情は車の両輪」が口癖で、財産を惜しまず家臣に与えている。
 合戦に際しては、「武将が後方で命ずるだけでは駄目」という信念から、黒漆塗燕尾形兜 (通称/銀鯰尾兜) の姿で戦場を駆け抜けていたという。
 しかし、一族を躍進させた名将であったが、戦国時代に珍しく側室を持たず、子供が少なかった。 未亡人となった正室/冬姫も、側室になるように迫る秀吉に対して断固として受け付けず、出家してしまうほど睦まじかったようだ。
 弟/重郷は勇猛な武将だったが、武勇を恐れた氏郷公の意向を受け、家臣/岡野平治兵衛・石原源八に下迫城で暗殺されており、男の兄弟も失っていた。
 元服前で家督を継がざるを得なかった嫡子/秀行公も、家康の娘を正室に迎えたため側室を持たず、孫の忠郷公の代で大名としての蒲生家は断絶した。

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