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白     河     市

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白河の関跡

白河の関跡

 5世紀前半、蝦夷の南下を防ぐために建てられた大和側の砦。
 平安末期の奥州藤原氏の領土の境界でもあった。
 奥州三関 (勿来の関、念珠ヶ関) の一つ。
 その後、白坂越えのルートが出来てからは、忘れ去られていた。
 国指定史跡。

 「古関蹟」の碑が建っている。
 寛政12(1800)年に、白河藩主の松平定信の考証により場所が特定された。
 能因法師の句のように、歌枕に読まれることが多い。
  "都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関"
 西行法師、一遍、松尾芭蕉などの歌人や、源義経・弁慶も訪れている。
 ▲(白河市大字旗宿字関ノ森)   [史料]

≪白河神社≫
 宝亀2(771)年に創建され、白河の関を境内としている神社。
 現在の建物は、元和元(1615)年に伊達政宗公によって改築奉納されたと言われている。
 源義経が平家追討の時、戦勝を祈願して矢を射立てた「矢立の松」もあるが、今は根元が残っているのみ。
 ▲(白河市旗宿白河内84 Tel. 0248-32-2728)

≪関の森公園≫
 白河の関に隣接している公園。
 移築した直家造りの茅葺の古民家や、相撲道場、体験農園、物産販売、レストランなどがある。
 ▲(白河市旗宿白河内7-3)
   ・9時〜17時(11月から3月は、9時〜16時)
   ・休館日 第2水曜日(祝日の場合は翌日)、12月28日〜1月3日

小峰城 (白河城) 跡

小峰城跡

 興国元(1340)年頃、結城親朝が小峰ヶ丘に築いた城。
 白川城とも。
 藩主が蘆名時代の一時期と、伊達政宗蒲生氏郷上杉景勝の時代は会津藩の地 (同じ領民)。
 寛永4〜9(1627〜1632)年に、白河藩主・丹羽長重が数年をかけて、近世城郭として大改修した。
 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (13番) の1つ。
 戊辰の役の激戦地であり、すべてが焼失した。
 明治4(1871)年、廃城。
 現在の建物は、天守閣が平成3(1991)年、前御門が平成6(1994)年に復元されたもの。
 ▲(白河市郭内1)   [史料]

白河バラ園 ≪白河バラ園≫
 昭和35(1960)年、小峰城帯曲輪の一部に、市営バラ園として開園した。 約8,000平方メートルの敷地に、約300種、4,000株のバラが咲き誇る様は、見事である。
 ▲(白河市郭内1)
白河集古苑 ≪白河集古苑≫
 「結城家古文書館」と「阿部家名品館」からなる歴史民俗資料館。
 結城家古文書館は、白河結城家に伝えられた文書を展示している。
 阿部家名品館は、白河藩を治めた阿部家に伝わる絵画、陶磁器、刀剣などを展示している。
 ▲(白河市郭内1-73 Tel. 0248-24-5050)
   ・9時〜16時30分(入館は16時まで)
   ・休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)、12月28日〜1月4日

南 湖

南湖

 享和元(1801)年、白河藩主/松平定信が、庶民の憩いのために造園した日本最古の公園。
 士農工商に捉われず、「四民共楽」という考え方から築園したという。

 小峰城の南に位置していたからとも、李白の詩句の「南湖秋水夜無煙」からことから名付けられたとも言われている。
 湖畔には、約800本の吉野桜をはじめ、ツツジ、松、嵐山の楓など 春の桜、夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色など四季折々の景観は、素晴らしい。

翠楽苑入口 ≪翠楽苑 (すいらくえん)≫
 中央に池、周りに道を通した池泉回遊式の日本庭園で、南湖の一画にある。
 24平方メートルの敷地には、抹茶と菓子を楽しめる松楽亭や、茶室の秋水庵がある。 8月の灯籠茶会、9月の十五夜月見会、10月の十三夜月見会には、多くのファンが集まる。
 湖畔の各店では、味を競い合っている「南湖だんご」が名物となっている。
 ▲(白河市五郎窪山45-1 Tel. 0248-23-6888)
   ・9時〜16時30分
   ・休館日 12〜3月と7月の第二水曜日(祝日の場合は翌日)、
         12月28日〜31日、1月2〜3日

南湖神社 ≪南湖神社≫
 白河楽翁(松平定信)を御祭神とおり、南湖の北岸に鎮している神社。
 江戸幕府第8代将軍吉宗の孫に当たり、家治の後継として第11代将軍になる予定であった。 田沼意次の「賄賂政治」の批判をしたため、白河藩の養子とされ、次期将軍から外された。
 天明の大飢饉の際には、自らが率先して倹約し、食料救済措置を迅速に行なったため、餓死者は出なかったと言われている。
 田沼意次が失脚した後には、将軍補佐で老中首座となり、寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
 この政治理念は、幕政の基本として幕末期までの堅持される。
 文政12(1829)年5月13日に死去、享年72歳。
 ▲(白河市字菅生館2 Tel. 0248-23-3015 〔HP〕)

小原庄助の墓 (皇徳寺)

小原庄助の墓(皇徳寺)

 徳利と盃の形をしている墓の正面には、
   戒名「米汁呑了信士」、
 裏面には句が刻まれている。
 「朝によし 昼はなほよし 晩もよし
        飯前飯後 其間もよし

 ここでは白河の友人宅で客死したとしている。
 会津若松市の秀安寺にが、秀長寺に供養塔がある。

≪皇徳寺≫
 大同年間に法相宗の僧・勝道が創建した勝道寺を前身とする。
 平安時代末期に再興された際に、今の天恩皇徳寺を号する。
 その後、丹羽氏の時代に、現在の地に移る。
 ▲(白河市大工町83 Tel. 0248-24-1036)

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