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ご   縁   の   あ   る   地

岐 阜 県 と の“ご 縁”

殉難者については、こちら。

岐阜城

 蒲生氏郷の義父/織田信長の居城の1つ。
 当初は人質として居住していたが、認められて信長の次女/冬姫をめとる。
 元々は、建仁元(1201)年に二階堂行政が築城。
 慶長5(1600)年、廃城。
 昭和31(1956)年、現在の天守が再建。
 平成23(2011)年、国の史跡に指定。
 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (39番) の1つ。
 展望レストランの 信長どて丼 が人気とのこと。
 ▲(岐阜市天主閣18 Tel. 058-263-4853)

瑞龍寺僧堂

瑞龍寺僧堂

 蒲生氏郷人質の幼少の頃、禅僧/南化玄興に師事し、儒教や仏教などの学門を学び、その後の才覚を磨き上げたとされる。
 応仁2(1468)年、美濃の国守/斎藤妙椿が創建し、悟渓宗頓国師が開山。
 臨済宗妙心寺派。
 ▲(岐阜市寺町19 Tel. 058-246-2597)

高須城

高須城跡

 松平容保の出身/高須藩の居城。
 ただし、生まれも育ちも江戸にある高津藩邸。
 元々は、暦応元(1338)年に氏家重国が築城。
 高須小学校東側の小さな公園に、わずかに土塁や堀と説明版が残っているだけで、町中にも面影はない。
高須城跡
高須城跡の説明文


 ▲(海津市海津町高須)

関ケ原町歴史民俗資料館

関ケ原町歴史民俗資料館の南光坊 関ケ原町歴史民俗資料館の屏風
関ケ原町歴史民俗資料館


 所蔵している「関ケ原合戦図屏風」の家康本陣付近に甲冑姿の「南光坊 (天海大僧正)」が描かれている。
 歴戦の武将達より立派な甲冑姿の軍師として描かれている。
 そうならば、天海大僧正が明智光秀説は無くなる。
 館内は撮影禁止だが、入口にある屏風はOKだった。
 ▲(関ケ原町大字関ケ原894-28 Tel. 0584-43-2665)


 道路の反対側に「コ川家康最後の陣地跡」と、関ケ原駅との対称側に「コ川家康最初の陣地跡」がある。

コ川家康最後の陣地 コ川家康最初の陣地
<現地の説明文>
<現地の説明文>

 戦いに勝利し、敵側武将らの首実検をしている「コ川家康最後の陣地」にはいないようで、早くも江戸の都市計画に着手していたのだろうか。
 元とされる彦根城博物館所蔵の屏風には「南光坊」の記載がないとのことであるが、「歴史はロマン」でよかろう。
 なお、コ川家康は、保科正之の祖父である。

岩村城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (38番) の1つ。
 慶長4(1599)年、田丸直昌が城主となる。
 田丸直昌は、蒲生氏郷の妹が妻であり、会津藩の支城/須賀川城の城主も務めた。
 承久3(1221)年頃、遠山景朝が築城。
 霧が多く発生するため霧ヶ城とも呼ばれる。
 全国で最も高所にある山城。
 明治4(1871)年、廃城。
 平成2(1990)年、藩主邸・表御門・平重門・太鼓櫓など再建が始まる。
 ▲(恵那市岩村町城山)

西高木家陣屋

西高木家陣屋

 関一政 (正室が蒲生氏郷の妹/瑞応院) が、多良藩主時の藩庁・居城。
 高木貞利が陣屋として築く。
 多良城、多羅城、高木陣屋とも。 国の史跡。
 慶長5(1600)年、入封した関一政が修築。
 慶長6(1601)年、再び所領した高木貞利が再築。
 明治に入り、東高木家陣屋と北高木家陣屋は消滅。
 ▲(大垣市上石津町宮237)

春日八郎歌碑

春日八郎歌碑

 オーナーが春日八郎の大ファンとのこと。
 「山の吊橋」に因んで建立。
 山間部に歌がこだまする。
 店は週の半分しか開いていないが、歌碑の見学は自由。
  ・定休  火・水・木曜、12月〜2月
 ▲(中津川市加子母5367-80)

郡上おどり

 日本三大民踊の1つ(会津磐梯山おどり阿波おどり)。
郡上八幡博覧館  郡上藩主の奨励により踊りとしての体裁が整えられたとされる。
 明治7(1874)年、明治政府に禁止されるが、後に復活。
 ▲郡上八幡博覧館
  「おどりのコーナー」
   (郡上市八幡町殿町50
     Tel. 0575-65-3215)

≪織田信長とのご縁≫


岐阜信長神社 (橿森神社)

熱田神宮

 建勲神社とも。
 祭神:織田信長。
 信長が美園で開いた楽市楽座の市神を橿森神社の神木/榎の元に祭ったことから、明治に入り京都/建勲神社から分霊。

清洲城 清洲城
 ▲(岐阜市若宮町1-8 Tel. 058-246-0125)


織田信長・信忠墓所 (崇福寺)

 信長の側室/お鍋の方が遺品を送り寺内に埋葬させ、位牌を安置させた。 位牌形の石碑には、左右に分けて信長・信忠父子の法名が刻まれている。
現地板  「ハ見院殿贈一品大相圀泰岩大居士
 「大雲院三品羽林高岩大禅定門
 墓の右側に、格子塀に囲まれた宝形胴葺根木造彩色の位牌堂があり、父子の位牌が安置されている。
 信長が美濃に入って、すぐに庇護した寺院。
 信長の孫/三法師秀信が関ヶ原の戦いの岐阜城で戦死した兵の霊を弔うため、本堂の天井に張った血痕が染みついた城の床板が現存している。

 ▲有料 (岐阜市長良福光2403-1 Tel. 058-231-2613)

豊国神社 (白鬚神社)

 平成4(1992)年、大阪/豊国神社から豊臣秀吉のみを分祀し、白鬚神社の境内社として創建。
 木下藤吉郎の時代に築いた墨俣砦 (一夜城) に由来。
墨俣一夜城歴史資料館  前年の平成3(1991)年に模擬天守閣 (墨俣一夜城歴史資料館) が築かれた記念として。
 「一夜城築城のこと(158KB)

 ▲(大垣市墨俣町墨俣1735 一夜城址公園)

松平義建 (高須御坊/真宗大谷派高須別院二恩寺)

 高須藩10代藩主/松平義建は、松平容保の父。
 寛政11(1800)年12月13日〜文久2(1862)年8月20日 (64歳)
 通称:範次郎。
 父/松平義和、母/平松氏。
 「芳潤院殿 前中書大卿羽林次将 建譽魁翠秉斎大居士
            文久二壬戌年八月二十日薨去

 幕末に名を残した高須四兄弟の父。
  (徳川慶勝・徳川茂徳・松平容保・松平定敬)

高須御坊/真宗大谷派高須別院二恩寺

 文政12(1829)年、創建。
 嘉永3(1850)年、義建が堂宇を整備し桑名別院の掛所として開基。
 明治11(1878)年、独立し高須別院二恩寺となる。
 ▲(海津市海津町高須町932 Tel. 0584-53-0274)

松平義建・松平義建 (行基寺)

 再び訪れても「危険に付き立入禁止」。
 危険個所を直す意思が無いのか、外からは危険なようには見えず、墓参をさせたく無い様だ。


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