会  津  の  著  名  人

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《 せ 》 幕 末 よ り 前

 青巌  せいがん、生年不詳〜欽明天皇6(545)年
 青岩とも。
 欽明天皇元(540)年、中国/梁の国から仏教伝来のため越後の浜に漂着した高僧/青巌一行は、携えた1体の仏像と連れてきた白鹿に導かれるまま、阿賀野川を遡って会津の地に至る。 近くの塩峰峠に上ってみると、東南の方角の山頂に、光り輝く紫雲が現れた。
 すぐさま山頂へ向かうと、何とも言えぬ霊気に満ち溢れており、聖地と悟り草庵を結んで日本で最初の仏教布教の拠点とした。
 「欽明天皇之年 梁国ノ僧青巌 会津ニ来タリテ一寺を開ク 我国ニ仏教東漸スル以前ノコト也」 「是日本庵室の始めという
 近隣には数多くの古墳が残っているほど佛教を受け入れられる文化が発達しており、地元の豪族の帰依を受けて、堂宇3千余を誇る仏教文化が隆盛へと発展する。
 事実上の梁の初代皇帝/武帝は、仏教を信奉し数多くの寺院を建立、庶民に対しては「皇帝大菩薩」と呼ばれるほど善政を敷き、近隣諸国への仏教布教にも尽力している。
 現在のところ「東奥会津塔寺邑金塔山恵隆寺略縁起」「会津旧事雑考」「新編會津風土記」などに記載されているだけだが、発掘調査などによる裏付けが得られれば、百済を経由して仏教が伝来したのではなく梁の国から直接伝わったことが判明し、「仏教伝来」の歴史が塗り替えられるといわれている。
 欽明天皇6(545)年、仏教文化の基礎を開いた高僧/青巌が入滅。
 宝亀6(775)年、中央集権化を推し進める一派の侵略「勝負沢の戦い」による兵火で、全ての堂宇が焼失・破壊され、初代高寺は滅亡した。
 関 藤右衛門  せき とうえもん、寛永5(1628)年〜元禄12(1699)年 (72歳)
 名:成義。
 寛永13(1636)年、前山形藩主/鳥居左京忠恒に仕えていたが鳥居家改易に従わず残留し、山形藩へ移封の保科正之公に召し抱えられる。
 寛永20(1643)年、再び加増移封された正之公に従い会津へ移る。
 万治2(1659)年、家老/田中正玄の推薦により南山御蔵入奉行に就任。
 就任するや領地の各地を巡視し調査した結果、街道の整備と、農民の窮乏を救うため水路の掘削が必要との結論に至る。
 寛文4(1664)年、大塩堰の工事を着工。
 清廉ながら剛直の性格であったらしく、会津藩領ではなく幕府からの預り領であると嘯いて奉行の命令に従わない郷頭や肝煎を厳しく処罰したため、寛文2(1662)年に幕府の目安箱に弾劾訴状が入れられるも勘定奉行の取り調べで藤右衛門の施政に問題はないとの裁定が下り、逆に郷頭や肝煎らが処刑や免職となっている (寛文事件)。
 寛文8(1668)年、難工事の末にトンネル (1,5km) が完成。
 沼沢村で4町歩、本名村で16町歩などの新田をもたらした。
 元禄12(1699)年、死去し、無量山長命寺に埋葬とのこと。
 地元の農民らは遺徳を偲び、藤右衛門の碑「釈昇道」を建立し、毎月の1日・15日・命日に祀り続けたという。
 「寛文八年 家士関藤右衛門成義と云う者 この地に奉行たりし時 この堤を築きしと これによりて村民 成義の徳を慕いて彼の履歴を石に刻して堤の傍に立つ 君姓は藤原氏 関 諱は成義 藤右衛門と称す 曾祖 大蔵左衛門 武田信玄に仕え 信州川中島に住す 祖の肥前守は上杉景勝に仕え川中島に住す 父 藤右衛門は鳥井左京亮に仕う、成義は初め鳥井家に仕えェ文十三年九月羽州最上に於いて始めて土津神君に仕う 土津神君封を奥州会津に転ぜらるるや君従いて会津に到る
 関本 巨石  せきもと きょせき、元文元(1736)年〜文久2(1805)年
 名:直為。 通称:与次右衛門。 屋号:越前屋。 号:六種庵。
 関本与右衛門の次男として小田附 (喜多方市) にて誕生。
 若くして和漢の学に勝れ、近郷近在にて亀鑑と仰がれる。
 子/如髪、孫/直有、曾孫/半岱や椿二など、多くの子孫を俳人として輩出し会津俳壇の興隆に貢献。

《 せ 》 江  戸  幕  末

仙太郎  千里市之助

《 せ 》 幕 末 よ り 後

 関場 不二彦  せきば ふじひこ、
 慶応元(1865)年11月7日〜昭和14(1939)年8月25日 (75歳)
 号:理堂。  <明治時代の我が国屈指の名外科医>
 藩士/関場忠武の次男として中鷹匠町 (千石町) にて誕生。
 曽祖父/春温は北方警備で利尻島に赴き現地で病没 (28歳)。
 祖父/春武は戊辰の役時に敢死隊/指図役として城下で戦死 (62歳)。
 父/忠武は、京都守護職時に「先鋒隊」、帰国後に「朱雀隊」として奮戦、後に会津松平家家譜の編纂に携わる。
 明治 3(1870)年、家族と共に斗南藩/大湊大平村 (むつ市) に移住するが、赤貧の生活を過ごす。
 栄養不良による病死者・凍死者を目の当たりにし医師を目指す。
 明治 7(1874)年、青森県の東京出張所員、後に内務省に入省する父に連れられ上京。
 明治15(1882)年、東京帝京大学医科大学予科に入学。
 明治22(1889)年、東京帝京大学医学部を優秀な成績で卒業。
 卒業後は、教授である外科医/スクリバの助手に就く。
 後に、スクリバ門下十哲の1人と称される。
 明治24(1891)年、濃尾大地震が起きたため、スクリバとともに現地に赴き救護医療に奉仕。
 明治25(1892)年、公立札幌病院長に就任 (27歳)。
 明治26(1893)年、関場医院 (札幌北辰病院) を開業。
札幌北辰病院  明治31(1898)年、ドイツへ留学。
 明治32(1899)年、帰国し、関場医院の名を北辰病院に改称。
 明治34(1901)年、「北海医報 (現/北海道医報)」を北辰病院研究会から創刊。
 大正15(1926)年、北海道医師会の初代会長に就任。
谷中霊園の墓  札幌医師会の初代会長、札幌市議会の副議長などを歴任し、我が国屈指の名外科医と讃えられ、北海道医学界に多大なる貢献をした。
 アイヌへ関心を持ち札幌人類学会を設立し初代会頭に就任、アイヌ人も積極的に診療を行なう。
 著書「腹膜結核及剖腹術」「西医学東漸史話」「あいぬ医事談」など。
 昭和14(1939)年、札幌市にて死去。
 墓は谷中霊園、「貫学院仁誉杏翁理堂居士」。
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