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ご   縁   の   あ   る   地

大    阪    府

殉難者については、こちら。

池上四郎の像 (天王寺公園)

 安政4(1857)年4月18日、池上武輔の4男として誕生。
 戊辰の役では、白虎隊を希望したが12歳のため年少隊にも入れなかったが、籠城戦で護衛隊に入隊する。 砲弾が飛び交う中、気後れすることなく唐人凧をあげて味方の士気を鼓舞した逸話は有名。
 父/武輔は、第二遊撃隊の組頭として越後/小千谷などで奮戦、兄/友次郎鳥羽伏見の戦いで戦死。
 戦後は斗南藩へ移住し辛苦満ちた生活を強いられる。
 藩が消滅したため上京し書生などを経て警視局一等巡査となり、石川県警、富山県警、京都府警部、千葉県警、兵庫県警、大阪府警などを歴任。
 大正2(1913)年、嘱望されて大阪市長に就任、3期10年を務める。
 市の財政再建を進め、電気・水道・大阪港建設などの都市基盤を整備、博物館・図書館や全国初の児童相談所・公共託児所を開設するなどの教育施設や病院の整備など社会福祉にも尽力し近代都市へ導いた。
 天王寺動物園を開園させたり、大阪電燈株式会社を買収し市営化もしている。
 秋篠宮紀子妃の曽祖でもある。
 ▲有料 (大阪市天王寺区茶臼山町1)

元祖たこ焼き 会津屋本店

元祖たこ焼き 会津屋

 会津坂下町出身/遠藤留吉が「たこ焼き」を考案。
 昭和8(1933)年、コンニャクを牛肉に替えた"ラヂオ焼き"を、大阪市生野区今里の屋台で売り出す。
 昭和10(1935)年、タコに替え鶏卵使用に改良して、“たこ焼き”と命名し、販売開始。
 現在の店主は、三代目。

元祖たこ焼き
 粉に味付しているため、戦前の“たこ焼”のままソースなど何もかけずに食べる。
 「元祖たこ焼き」は、和風だしで見た目以上に美味い。
 ふわふわ感が、たまらない。
 ▲(大阪市西成区玉出西2-3-1 Tel. 06-6651-2311)

 支店も数多くあり、地元で人気店になっている。
 ◇ なんばウォーク ▲(大阪市中央区千日前1 3番街南通り Tel. 06-6212-1132)
 ◇ 梅田 ▲(大阪市北区梅田3-2-136 梅三小路内) <2021年1月22日、閉店とのこと>
 ◇ ナンバ ▲(大阪市中央区難波5 ナンバなんなん Tel. 06-6649-7708)
 ◇ ユニバーサルシティーウォーク大阪店
        ▲(大阪市此花区島屋6-2-61-411 TM4F Tel. 06-6467-1622)
 ◇ 天保山店 ▲(大阪市港区海岸通1-1-10 Tel. 06-6576-5817)
 ◇ 粉カルト天下茶屋店 ▲(大阪市西成区岸里1-1-9 Tel. 06-6651-3511)
 ◇ ららぽーとEXPOCITY店 ▲(吹田市千里万博公園2-1 Tel. 06-4860-6586)
≪県外≫
 ◇ エビスタ西宮 ▲(兵庫県西宮市田中町1-6-4 1F Tel. 0798-81-5423)
 ◇ お台場店 ▲(東京都港区台場1-6-1 デックス東京ビーチ4F Tel. 03-3599-3511)

大雄寺跡 (浜寺)

大雄寺跡(浜寺)

 この地に、会津生まれの三光国師 (孤峰覚明)が建立した大雄寺があった。
 現在の堺市西区と高石市に跨る広大な寺領地を誇っていたが、応仁の乱で堂宇すべてが焼失し、近代の臨海工業地帯造成で面影も消え去り、碑が残るだけで歴史となった。
 吉野/日雄寺の「山の寺」に対し、大雄寺が「浜の寺」と親しまれていたことから、当時から辺りの地は「浜寺町」と呼ばれていた。
 夏目漱石「行人」にも登場している「三人は浜寺(はまでら)で降りた。この地方の様子を知らない自分は、(おおき)な松と砂の間を歩いてさすがに好い所だと思った」。
 谷崎潤一郎「卍」には、「浜寺」が12ケ所も出てくる。
 堺市と高石市に分割編入後も名称は廃止されず、「浜寺○○町」として残っている。
 公共施設としては、日本初の公園「浜寺公園」が両市に跨っており、「市立浜寺小学校」「市立浜寺中学校」「浜寺郵便局」「浜寺大橋」など。
 駅では、南海本線「浜寺公園」、阪堺電鉄阪堺線「浜寺駅前」。
 バス停では、南海バス「浜寺中学校前」「浜寺元町」「浜寺元町北」「浜寺公園駅前通」、コミュニティバス「浜寺三光会館前」など。
 
 そして、門前町らしく今なお“銘菓店”や“だんご屋”が多く見られる。
 ▲(堺市西区浜寺○○町 〜 高石市羽衣)  [史料]

獅子窟寺

獅子窟寺

 勝常寺と同じく国宝の薬師如来を所有。
  (勝常寺、神護寺、醍醐寺仁和寺元興寺法隆寺
 新薬師寺唐招提寺薬師寺奈良国立博物館)
 文武天皇(697〜707)の頃、役行者が開山し、行基が金剛般若窟として創建と伝えられる。
 国宝薬師如来の拝観は、要予約。
 参道は舗装・整備されているが、とても長く運動不足の年寄りにはキツイ。
 ▲(交野市私市2387 Tel. 072-891-6693)

千利休屋敷跡 (伝承地)

 大永2(1522)年、豪商魚屋(ととや)の父/田中与兵衛と母/月岑妙珎の長男として誕生。
 17歳で北向道陳に茶湯を学び、後に天下一の茶匠として権勢を誇るようになる。
 天正19(1591)年、秀吉の逆鱗に触れ切腹を命じられる。
 享年70歳。

 利休七哲の筆頭と言われる茶人でもある藩主/蒲生氏郷が、利休の茶道が絶えるのを惜しみ、利休の女婿(養子)/少庵を会津の地で匿った。
 少庵が庇護されなかったら、少庵の子孫が興した表千家・裏千家・武者小路千家は生まれなかった。
 少庵が過ごした麟閣は残っている
 ▲(堺市堺区宿院町西1-17-1)
   ・10時〜17時

豊国神社

豊国神社

 明治12(1879)年、京都/豊国神社大阪別社として創建。
豊国神社  祭神は、豊臣秀吉・秀頼・秀長。
 昭和36(1961)年、現在地へ遷座。
 平成19(2007)年、秀吉像が建立 (彫刻家/中村晋也作)。
 晩年の秀吉が開催した「醍醐の花見」所縁の桜木植栽されていた。


 ▲(大阪市中央区大阪城2-1 Tel. 06-6941-0229)

大阪城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (54番) の1つ。
 金城、錦城とも。
 天正11(1583)年、豊臣秀吉が築城。
 慶長20(1615)年、大坂夏の陣で灰燼に帰素。
 元和5(1620)年〜寛永6(1629)年、保科正之の父/徳川秀忠により再築城された。
 明治元(1868)年、廃城。
 現在の形は徳川氏の築城だが、今なお「太閤さんのお城」と呼ばれている。
 国の重要文化財、特別史跡。
 ▲(大阪市中央区大阪城1-1 Tel. 06-6941-3044)

千早城

千早城

 鶴ヶ城と同じく日本100名城 (55番) の1つ。
 正慶元/元弘2(1332)年、楠木正成。
 連郭式山城で、楠木七城の1つ。
 明徳3/元中9(1392)年、廃城。
 国の史跡。
 ▲(千早赤阪村大字千早)

与謝野晶子の生家跡

与謝野晶子の生家跡 与謝野晶子の生家跡碑

 明治11(1878)年、老舗和菓子屋「駿河屋」の鳳宗七と母/津祢の3女として誕生。
 本名:志よう。
 「みだれ髪」「君死にたまふことなかれ」などで著名な歌人・作家となる。
 道路の拡幅工事のため屋敷跡は道路用地になり、今では大半が道路上となってしまった。
 会津をこよなく愛し、来訪した東山温泉御薬園などに歌碑がある。
 ▲(堺市堺区甲斐町西1-1)

頼山陽の生誕地

頼山陽の生誕地

 「此付近頼山陽生誕地
 父/春水の私塾「青山社」があった場所。
 肥後橋に程近いところ。

 添川廉斎の師 (漢学) の1人。
 ▲(大阪市西区江戸堀1丁目)

堀部弥兵衛・安兵衛の親子墓 (福泉寺)

 元江戸留守居役の義父/弥兵衛金丸は、安兵衛武庸を養子にすると家督を譲り取り隠居していたが、討ち入りに最高齢で参加し切腹時には77歳であった。
 本墓は親子とも泉岳寺、安兵衛の両親墓は貴徳寺にある。
   弥兵衛 釈宗香信士
堀部墓 釈妙勝信女
   安兵衛 釈宗亀信士
 なお、台座には墓の施主なのか「華屋松女」とあり、後側面に「文化四丁卯稔十一月中旬建之」、墓石の右側面に20名、左側面に10名の法名が刻まれている。
 ▲(大阪市中央区中寺1-1-36 Tel. 06-6761-1924)

南宗寺
 大坂の陣で戦死したとされる徳川家康の墓 (伝) や、織田信長父子の供養塔、千利休の遺髪を埋葬した千利休の墓・それを取り巻く千家一門の墓があるのだが、有料で、かつ美術品でもないのに撮影禁止とのこと ?????。  ▲有料 (堺市堺区)

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