会  津  の  著  名  人

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]

《 そ 》 幕 末 よ り 前

 添川 廉斎  そえかわ れんさい、享和3(1803)年12月15日〜安政5(1858)年
 名:完平。 別名:久利、仲卓。 号:廉斎、有所不為斎、
 農家兼染物屋/添川清右衛門直光と母/富の子として小荒井寺町 (喜多方市) にて誕生。
 勉強が好きで、軍事奉行/広川庄助の従僕になる。
 江戸屋敷へ行くことが許され、儒学者/古賀精里、漢学者/頼山陽、漢詩人/菅茶山に学ぶ。
 その後、上洛し頼山陽、備後で管茶山に学ぶ。
 天保12(1841)年、39歳の時に安中藩に賓師として招聘される。
 江戸屋敷で漢学や儒学を教え、安中藩の藩風を一変させる。
 山本八重の夫/新島襄は その門下生であり、人生の指針に多大な影響を受けた。
 著書「有所不為斎雑録」など。
 安政5(1858)年、安中藩中屋敷で死去。「懿倫院徳若義馨居士」。
 墓は東京/正覚寺安勝寺
 顕彰碑は北宮諏方神社に隣接の稲荷神社境内。
添川廉斎の顕彰碑 安勝寺の墓 正覚寺の墓
 祖心尼  そしんに、天正16(1588)年〜延宝3(1675)年3月11日 (88歳)
 俗名:古那。 通称:“おなあ”、“おのう”、古那。
 伊勢国岩手城主/牧村利貞の娘。
 文禄2(1593)年、父/利貞が文禄の役で出陣中に死去したため、父と懇意であった前田利家に引き取られ、実子と同様に養育される。
 利家の長女/幸の息子である小松城主/前田直知へ嫁ぎ男児2人を出産するが、突然離縁を申し渡される。
 父/利貞が建立した京都/妙心寺「雑華院」に移り住む。
 やがて、蒲生忠郷公の重臣/町野長門守幸和と再婚し生活が安定、書物三昧の日々を送り知識と教養を身に付け、後の栄達へとつながる。
 蒲生家が取り潰しとなったため、夫と共に江戸へ移住する。
 豊かな知識と教養を見抜いた義叔母/春日局の補佐役として江戸城中に上がり、大奥の女中たちの教養向上の任に就く。
 春日局の養女として大奥に上げた孫娘/お振の方が、後に家光の側室になったため、家光の義祖母となる。
 寛永20(1643)年、出家し「祖心尼」と名乗り、家光にも禅を説く。
 家光の命により、祖心尼を開基とする牛込/済松寺が建立される。
 家光の死去したため、江戸城大奥を去り済松寺に移る。
 墓も済松寺だが非公開で、一般人の立入禁止。
 山鹿素行が江戸へ出てきた時に援助したのが祖心尼であった。

《 そ 》 江  戸  幕  末

 相馬 直登  そうま なおと、文化14(1817)年〜明治44(1911)年4月18日
 名:幸胤、新兵衛。 号:素哉。
 蝦夷地常詰郡奉行、御蔵入奉行などを歴任。
 戊辰の役では、軍事奉行に就き、正奇隊/隊長として長命寺の戦いに参加、その後は家老/佐川官兵衛とともに城外で奮戦。
 倅/孫市は宇都宮城下の戦いで戦死、妹/トイは西軍が鶴ヶ城下に乱入した日に自宅で自刃、娘は避難中の大曲村で被弾死した。
相馬直登の墓  開城後は、塩川謹慎中に単身脱走し上京、藩主の助命嘆願を直訴。
 明治3(1870)年、米沢藩士/雲井龍雄たちの事件に連座し、捕縛され芝増上寺に幽閉される。
 斗南藩へ移住。
 明治6(1873)年、会津に戻り、小荒井村寺町 (喜多方市) に隠棲し、地元の子弟たちに漢学や国学などを教える生活を送る。
 墓は安勝寺

相馬孫市

[戻る]  [TOP]  [行く]  [遊ぶ]  [知る]    [50音メニュー]