一     里     塚

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二  本  松  街  道

 猪苗代までは、
   ◇ 宿場のある磐梯山の山麓を通る本道の下街道
   ◇ 猪苗代湖北岸の集落を通る上街道
に別れていた。
 以下は、「下街道」。

二本松街道については、こちら。

≪藤原の道標≫       .
ヨークベニマルの裏手にある。   .
  向 右若松市ニ至ル約十二町   .
  左大寺又猪苗代方面ニ至ル  .
向 右長原村経て戸ノ口方面至ル
  .

松窪一里塚 松窪一里塚の碑

@松窪一里塚 (会津若松市)

 下居合一里塚、船ヶ森東一里塚とも。

八田野一里塚の右側 八田野一里塚の碑

A八田野一里塚 (会津若松市)


八田野一里塚の現地文
八田野一里塚の左側 八田野一里塚の碑

≪八田野の道標≫       .
北大寺駅廿丁猪苗代町三里     .
東強清水一里戸ノ口一里廿余丁   .
西廣田駅一里坂下町三里半
       .
八田野の道標 八田野の道標

B滝ノ原一里塚   <消滅>

 更科一里塚とも。

≪磐梯村の道標≫       .
 磐梯村道路元標
            .
磐梯村の道標 磐梯村の道標
 
≪大寺宿≫
 古代から中世にかけて当地方を治める巨大寺院/慧日寺があることから「大寺」と呼ばれ、門前町として成立していた。
   「家数74軒 東西1町2間 南北8町50間
    二本松街道に住す 四方田圃にて南に日橋川あり

 慧日寺への参拝道として利用されていたため、「大寺街道」と呼ばれていた。
 江戸時代に入り二本松街道が開削されたため、宿場町として整備される。
 その後、藩祖/保科正之公を祀る土津神社への参拝経路として栄える。
 さらに、鶴ヶ城下に薪材・炭を供給する集結地として発展する。

≪コンパス松≫       .
コンパス松 コンパス松の馬頭観音

コンパス松

(以下の現地案内) 天野信雄 氏    .

C御上覧場一里塚 (榎壇、不動、猪苗代町)

御上覧場一里塚の左側 御上覧場一里塚の右側


御上覧場一里塚の現地文

≪松並木≫       .
旧二本松街道松並木

旧二本松街道松並木

三忠碑       .
三忠碑

D中町一里塚  <消滅>

≪中町の道標≫       .
 右二本松街道
          .
中町の道標 中町の道標
 
≪猪苗代宿≫
 単なる宿場町・城下町としてだけでなく、下記の重要な役目も兼ねていた。
  ◇ 居城/鶴ヶ城の支城/猪苗代城 (亀ヶ城)との往還。
  ◇ 藩祖/保科正之公を祀る土津神社への藩主参拝時の休息・着替え場所。
  ◇ 保科正之公の墓守の任。

E曲淵一里塚  <消滅>

F関脇一里塚  <消滅>

 
≪関脇宿≫
 都沢宿、関脇宿、壺下宿と3つの宿場が並ぶ。
 関脇宿で下街道と上街道が合流する。
 壺下宿の西端の山すそにある切り通しの藩境 (二本松藩) に関所が設けられていたことから、「関所の脇」として「関脇」と呼ばれた。
 人口/200〜250人、家数/48〜50軒、馬/30〜50頭。
 戸ノ口から積み出された物資も、猪苗代湖舟運を経て関脇宿に集積され、奥州街道へ運ばれた。
  ≪地蔵堂≫
 悲しき歴史の残る地蔵尊
関脇の地蔵尊

 
≪楊枝集落の跡≫    .
楊枝集落跡記念碑 楊枝集落跡記念碑
 慶長2(1597)年、蒲生氏郷公に命により拓いた街道の役務を担うため設けられた宿場町 (完成は秀行公の治世)。
 幕末には旅籠や民家など70戸以上が軒を連ね、会津藩と二本松藩を行き来する物資の荷継ぎで大いに栄えていた。
 極悪人/三島通庸が会津の力を削ぐため、敢えて宿場町を通らない新道建設を地元民に強要したため楊枝集落は衰退、わずかに残った集落全戸が磐越自動車道の敷地に当り閉村となった。
 石碑 「道路に因って生まれ、道路の為に消失した村

≪よなき石≫      .
よなき石

G楊枝一里塚 (猪苗代町)

楊枝一里塚の左側 楊枝一里塚の右側


楊枝一里塚の現地文
 会津領と二本松領の境/楊枝峠の手前。

本宮追分

≪二本松藩領≫

中山宿 → 横川宿 → 苗代田宿 → 本宮宿
     → (本宮追分で奥州道と合流) → 二本松

 明治29(1896)年、医聖/野口英世が医師を目指し、
受験の際に歩んだ道でもある。

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