戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書

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 落の沢には新田初五郎の家一軒と、それより五十間ほど隔たりたる低き川辺に分家の一軒あるのみなり。
 これよりさらに十丁ほど離れて干泥田村の十四軒が最も低く、大平村には二十余丁、金谷村には一里ばかりあり。
 霊媒にて有名なる恐山の裾野は起伏し、松林、雑木林入り交じり、低地に数畝の田あるのみ。
 まことに荒涼たる北辺の地にて、猟夫、樵夫さえ来ることまれなり。
 犬の声まったく聞くことなく、聞こゆるは狐の声、小鳥の声のほか、松林を吹き渡る風、藪を乱す雨の音のみ。
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 この境遇が、お家復興を許された寛大なる恩典なりや、生き残れる藩士たち一同、江戸の収容所にありしとき、会津に対する変らざる聖慮の賜物なりと、泣いて悦びしは、このことなりしか。
 何たることぞ。はばからず申せば、この様はお家復興にあらず、恩典にもあらず、まこと流罪にほかならず。
 挙藩流罪という史上かつてなき極刑にあらざるか。
 父も兄も姉も、ただひたすらに縄ないて語ることなし。余少年なりとはいえ、これほどの仕打ちに遭いて正邪の分別つかぬはずなし。
 かかる運命ならば、祖母さま、母上さま、姉妹の自害も当然なりしことよと気づき、母上さまとともに他界せばよかりしものをと、甲斐なきことを思いつつ炉の火を見つめてあれば、若松城下を波打ちて狂う紅蓮の炎、眼底に揺らめき、白装束の母上さまの自害の遺骸その中に伏してあり。
 熱涙頬を伝いて流る。
 ああ、すぎたること語るに堪えず、今日の悲運嘆きても甲斐なし、さればとて近き日に希望の兆もなし。
 かくては火を囲みて互いに語るべきこと何もなし。
 過去もなく未来もなく、ただ寒く飢えたる現在のみに生くること、いかに辛きことなりしか、明日の死を待ちて今日を生くるは、かえって楽ならん、死は生の最後の段階なるぞと教えられしこと たびたびあり、まことにその通りなり。
 死を前にして初めて生を知るものなりとも説かれたり、まことにその通りなるべし。
 今は救いの死をさえ得る能わず、「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたるよと、薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまでは生きてあれよ、ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と、父に厳しく叱責され、嘔吐を催しつつ犬肉の塩煮を飲みこみたること忘れず。
 「死ぬな、死んではならぬぞ、堪えてあらば、いつかは春も来たるものぞ。堪えぬけ、生きてあれよ、薩長の下郎どもに、一矢を報いるまでは」と、自ら叱咤すれど、少年にとりては空腹まことに堪えがたきことなり。
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 建具あれど畳なく、障子あれど貼るべき紙なし。
 板敷には藁を敷き、骨ばかりなる障子には米俵等の藁縄にて縛りつけ戸障子の代用とし、炉に焚火して寒気をしのがんとせるも、陸奥湾より吹きつくる北風強く部屋を通り貫け、炉辺にありても氷点下十度十五度なり。
 炊きたる粥も石の如く凍り、これを解かして啜る。
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 父上は、炉のかたわらにて習いおぼえたる網結その他の手細工をされ、兄嫁は毎日朝より授産所にて機織して工銭を稼ぐ。
 薪は晩秋拾い集めたる枯枝を使いあるも足らず、積雪の中を探し求む。
 炭には焚火の消炭を用い、行火には炭団を作るに苦心せり。
 売品を購う銭の余裕まったくなし。
 用水は二丁ばかり離れたる田名部川より汲むほかなし。
 冬期は川面に井戸のごとく氷の穴を掘りて汲みあげ、父上、兄嫁、余と三人かわるがわる手桶を背負えるも途中にて氷となり溶かすに苦労せり。
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 かくして、およそ二十日間、毎日犬肉を喰らいつづけたり。
 そのためなるか、あるいは栄養不足のためなるか知らず、春になりて頭髪抜けはじめ、ついに坊主頭のごとく全体薄禿となれり。  〜〜〜〜

 いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過ごして齢すでに八十路を越えたり。
 多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づることまれなり。
 粗衣老體を包むにたり、草木余生を養うにあまる。
 ありがたきことなれど、故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤すれど、懊悩流涕やむことなし。
 父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。
 四季の風月雪花常のごとく訪れ、多摩の流水樹間に輝きて絶えることなきも、非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余をあわれむがごとし。
 時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。
 恨みても甲斐なき繰言なれど、ああ、いまは恨むにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
 過ぎてはや久しきことなるかな、七十有余年の昔なり。
 郷土会津にありて余が十歳のおり、幕府すでに大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。
 新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、いかなることのありしか、子供心にわからぬまま、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裡に刻まれて消えず。
 薩長の兵ども城下に殺到せりと聞き、たまたま叔父の家に仮寓せる余は、小刀を腰に帯び、戦火を逃れきたる難民の群れをかきわけつつ、豪雨の中を走りて北御山の峠にいたれば、鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、城下は一望火の海にて、銃砲声耳を聾するばかりなり。
 「いずれの子旦那か、いずこに行かるるぞ、城下は見らるるとおり火焔に包まれ、郭内など入るべくもなし、引返されよ」と口々に諫む。
 そのころすでに自宅にて自害し果てたる祖母、母、姉妹のもとに馳せ行かんとせるも能わず、余は路傍に身を投げ、地を叩き、草をむしりて泣きさけびしこと、昨日のごとく想わる。
 落城後、俘虜となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。
 悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。

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「ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書」より