偉     人     伝

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大 山 捨 松 の 略 歴

 捨松の生涯は、大きく2つの時代に分けられる。

  ◇ 運命に翻弄された時代 (山川捨松)
    会津藩家老の家に生れ育ち、8歳で籠城戦。
    困窮する斗南で里子に出され、留学生募集で異国に渡る。
    帰国するも活躍の場を得られず、失望の日々を過ごす。
  ◇ 幾多の夢が開花する時代 (大山捨松)
    旧敵/大山巌の熱烈な求愛を受け入れ、結婚。
    新しい時代へ鹿鳴館デビュー、「鹿鳴館の貴婦人」となる。
    夫を助けるため、留学の経験をフルに活用し外交官との交渉に貢献。
    夢だった女子教育と、社会福祉活動に邁進する。

 時代に翻弄されようとも、諦めることなく、常に前向きに生きぬいた女性であった。

 捨松には、2人の兄がいる。
 元/会津藩士を隠さず生きて、明治の世で活躍できた珍しい兄弟である。
山川浩 (大蔵)≫
 陸軍少将への道を歩む。
 京都守護職を拝命した藩主/松平容保に伴って京都へ同行した経験から、「京都守護職始末」を著述したが、孝明天皇からの忠孝を示す御辰韓が記載されていたため、明治44(1911)年まで出版できなかった。
山川健次郎
 東京帝国大学総長への道を歩む。
 カレーライスを初めて食べた日本人でも知られている。
 白虎隊に入隊していた経験から、「会津戊辰戦史」を著述したが、公正な視点で真実が記載されているため、悪逆非道の限りを尽くした事実を隠蔽し、歴史すら虚偽・欺瞞である真相が暴かれるのを恐れたの弾圧により、出版できたのは死去した翌年/昭和7(1932)年だった。

幾 多 の 夢 が 開 花 す る 時 代

明治16(1883)年

 大山巌は先妻を亡くしており、政府高官としての職を全うするには、3人の幼い娘を託せる後妻が必要だった。
 先妻の父/吉井友実も、幼い孫のためにと、後妻を探していた。
 吉井の目に適ったのが、捨松だった。
 当時の外交は、昼間の公式会談ではなく、むしろ夫人同伴の夜会や舞踏会の方が大きな部分を占めていた。
 米国の名門大学を総代で卒業し、英会話だけでなくフランス語やドイツ語が得意で、かつ凛として美しい捨松は理想的な女性に映った。
 永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴で、2人は運命的に出会う。
 欧米式に洗練された捨松の美しさに、一目惚れをしてしまう。

 吉井は、すぐさま山川家に縁談の意向を願い出た。
 会津藩の家老だった山川家が、戊辰の役の仇敵である薩摩藩士に許すはずもない。
 さらに、砲兵隊長だった巌は、鶴ヶ城を攻撃していた。
 家長である兄/浩の妻は、その砲弾で爆死している。
 即刻、拒絶する。
 まったく受け付けようともしない山本家に対して、巌は諦めなかった。
 従兄弟の西郷従道に説得を依頼、従道は連日のように山川家に通った。
 従道は西郷隆盛の弟である。 巌の懇願を受けているので、こちらも諦めなかった。
  「我が山本家は、逆賊と汚名を着せられた元・会津藩士である」
  「大山巌も、今や同じ逆賊 (西南戦争のこと) となった西郷隆盛の一族です」
 徹夜に及ぶ日もあったという。
 やがて、余りの熱意に “絶対反対” から、“捨松本人が承諾すれば” へと軟柔した。

 さっそく西郷は捨松に会うと、淡々とした返事が返ってきた。
  「人柄を知らないうちに、返事などできません」
 結婚は親同士が決める時代、ましてや女の方からの結婚前の交際を要求することなど、西郷には理解できなかった。
 落胆して巌に伝えると、大喜びで応じるという。
 デートが、始まった。
 陸軍卿が小娘のところに出向く姿を見て、周りの人は驚愕した。
 世間の評判など気にする様子もなく、巌はデートを重ねた。
 日本語もままならぬ捨松、薩摩弁の抜けぬ巌、英語での会話が多かったという。

10月28日
 捨松は、結婚を受け入れた。
 交際を初めて、わずか3ヵ月であった。
 政府の要人と結婚することは、同時に
   “教育関連に従事し、教壇に立つ”
との夢を諦めることでもあった。

11月8日
 山川捨松と大山巌との婚儀が催された。
 捨松は、大山捨松になった。

11月28日
 鹿鳴館の落成祝宴が開催。
鹿鳴館跡

12月12日
 婚儀から1ヶ月後、盛大な結婚披露宴が催された。
 完成したばかりの鹿鳴館の会場には、1千人を超える招待者で溢れたという。
 招待状はフランス語で書かれていて、招待者を驚かせた。
 新婦の捨松は、招待客の中に入り込み、率先して話しかけをしていたという。

 国際化を目指す明治政府は、諸外国の外交官を鹿鳴館に招き、連日のように夜会や舞踏会を開いた。
 高官の中には、芸者や娼妓を正妻にして対応したものも多かった。
 「サルまね」 と揶揄し、陰では嘲笑していた列強の外交官たちも、米国の教育を身に付け、輝く華麗な姿の捨松だけは、誰もが認めた。
 洋装が良く似合う日本人離れした長身で、軽やかなステップを踏む。
 流ちょうな英語やフランス語、ドイツ語を駆使して、どの国の外交官とも会話を楽しむ。
 時折り、ジョークを加えて、談笑する。
 誰ともなく、「鹿鳴館の貴婦人」 「鹿鳴館の華」 「鹿鳴館の女王」 と呼ぶようになった。
 やがて、上流夫人たちから、西洋式の礼儀作法を教て欲しいと依頼される。
 捨松は、ますます輝いていった。

明治17(1884)年

 捨松の活動は、舞踏会だけではない。
 有志共立東京病院 (東京慈恵会病院) を見学すると、米国のような看護婦がいない。
 女性の病人の世話すら男の雑用係がしている姿を見て、ショックを受ける。
 院長の高木兼寛に出向き、キメ細かさを持っている女性の方が看護に向いていると説く。
 英国セントトーマス病院に留学した経験のある高木は、必要性を認めるが資金がなく、看護婦を養成する学校がつくれない現実を告げる。

6月12日〜14日
 日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開催する。
 当時の日本には、理解できる人などいない。
 政府要人の妻に自ら働きかけ、品物の調達から告知・宣伝まで奔走し、当日は販売の陣頭指揮をする。
 3日間の開催で、入場者数1万2千人を数えた。
 来場者には、慈善活動だから“お釣り”は出ないというも、捨松の情熱ある対応に快く応じた。
 目標の1千円を遥かに超え、病院がいくつもできるほどの8千円を上回る利益をあげた。 全額を、有志共立東京病院の高木兼寛へ寄付した。
 この資金で2年後に、日本初の看護婦学校「有志共立病院看護婦教育所」が設立された。
 行動力も、すばらしい女性であった。
 政府の要人と結婚したことで、捨松自身が直接かかわることは出来なくなっていたが、女子教育への熱意は冷めることなく、生涯にわたって裏方として支援をし続けている。

 噂を聞いた伊藤博文から要請があり、華族女学校 (学習院女学部) の設立準備委員に就任。
 親友の津田梅子やアリス・ベーコンたちを教師に招聘するなど尽力する。
 華族女学校が開校すると、捨松は失望する。
 授業は、旧態依然で儒教的道徳に沿った、男尊女卑の内容だったのである。

明治20(1887)年

 日本赤十字社に働きかけ、篤志看護婦人会を発足させる。
 米国の留学中に看護学を学び看護婦の資格を取得しており、夫/巌が軍隊の参謀総長だったからであった。
 日本赤十字社篤志看護婦人会の発足人の1人となっている。
 2年後には、救護員養成所も開校した。
 後に、愛国婦人会理事や、赤十字篤志看護会理事にも就任している。

明治21(1888)年

 兄/健次郎が、東京大学で初めての理学博士号を授与される。

明治27(1894)年

 日清戦争勃発。
 夫/巌は、第二軍司令官に着任。
 戦傷者の看護を呼び掛け、自らも活動を開始した。
 最終的に、25万人の看護婦が動員された。

明治31(1898)年

2月4日
 兄/浩が、死去。

 順調なに輝く人生を手に入れた捨松は、突然、不幸に見舞われる。
 徳富蘆花が、捨松を継母のモデルにした小説「不如帰」で誹謗中傷したのである。
 徳富蘆花の兄/徳富蘇峰も、会津藩士の娘/新島八重を中傷している。
 孝明天皇からの御辰韓を記載した「京都守護職始末」が明治44(1911)年まで出版できず、言われなき汚名を着せられていた時代である。
 徳富一族は、時の権力者におもねる家系のようだ。

明治32(1899)年

 2年前に死去した「日本のナイチンゲール」「菩薩の化身」とまで賞賛された瓜生岩子の銅像建立が持ち上がる。
 白羽の矢が立ち、30人ほどで募金活動を開始するや、渋沢栄一の賛同を得るなど、瞬く間に目的を超える金額が集まったという。
 早速、パリ美術学校やローマ美術学校で学んだ新進気鋭の彫刻家/大熊氏廣に依頼。
 明治34(1901)年4月19日、渋沢栄一が委員長を引き受けた除幕式が、盛大に執り行われた

明治33(1900)年

 津田梅子から女子英学塾 (津田塾大学) を設立したいと相談されるや即座に全面協力を約束し、瓜生繁子にも声をかける。
 文部省に提出した設立申請書には、梅子と共に筆頭に署名している。
 
《設立申請書》理事 (2名):大山捨松、津田梅子
       社員 (6名):阿波松之助、巌本善治、上野栄三郎
             桜井彦一郎、元田作之進、新渡戸稲造
 
 米国に帰国していた親友/アリス・ベーコンへも、再び招聘した。
 伊東博文の時に失望した経験から、教育方針に制限が加えられないように自分たちの手で理想とする学校をと、どこからも金銭的な援助は受けず、生徒数/10名で設立しスタートした。  [校舎]
 捨松自身も、女子英学塾の運営に関与している。
 後には、理事や同窓会/会長まで務めた。
 捨松の援助なくしては、生涯独身であった津田が成功を収めることなどできなかったのである。
 捨松が、津田塾大学の開祖といわれる由縁である。

明治34(1901)年

 兄/健次郎が、東京帝国大学総長になる。

明治38(1904)年

 日露戦争勃発。
 夫/巌は、満州軍総司令官に着任。
 兄/健次郎が、貴族院勅選議員となり、大正2(1913)年まで続ける。

 早速、日清戦争時に培った経験と人脈をフルに使って、戦傷者の看護を訴えた。
 日清戦争時の6倍に当たる120万人もの看護婦が集まり、従軍看護婦が一般女性の人気にもなるほどだった。
 流ちょうな語学と、鹿鳴館での人脈を最大限に活用し、世界中に日本の立場を訴えた。
 「ロンドンタイムス」や米国の週刊誌などに、繰り返し寄稿した。
 米国の新聞が、ロシア軍を撃破し続ける日本の司令官の夫人が、米国育ちで名門ヴァッサー大学出身であることを連日報道したため、多額の義援金が捨松へ送られ、慈善活動に使われている。
 日本とロシア間の仲介をした米国高官は、「戦争を早期に終結させ、講話条約を有利にした影の功労者は“捨松”である」と語ったという。

明治40(1907)年

 兄/健次郎が、明治専門学校 (九州工業大学) の総裁になる。

明治41(1908)年

4月30日
 長男/高が台湾の馬公軍港に寄港中、海軍少尉候補生として搭乗していた防護巡洋艦/松島が爆発事故により沈没し殉職してしまう。
 父が陸軍の要人であることから、「陸軍では親の七光りとされる」として海軍を選び、難関の海軍兵学校を卒業 (海兵35期) し、将来を嘱望されていた。
 奇縁なのか、親友/繁子の長男/瓜生武雄 (海兵33期) も海軍少尉として松島に搭乗しており、殉職している。
 
永井繁子 <しげ ⇒ 瓜生繁子>
 文久元(1861)年3月20日、幕臣外国方/益田鷹乃助の4女として江戸/湯島猿飴横町 (東京都文京区湯島) で誕生、7歳で幕府の軍医/永井玄栄の養女となる。
 同時期に米国に留学していた瓜生外吉と大恋愛に陥り、結婚のため捨松より1年早く帰国するが、結婚式は捨松・梅子の帰国を待って執り行った。
 アメリカで青春時代を共に過ごした2人は、夫婦間でも英語で話すことが多かったという。 日本初のピアニストとして、東京音楽学校 (東京芸術大学)、 女子高等師範学校 (お茶の水女子大学) などの教授として音楽と英語教育に尽力。
 昭和3(1928)年11月3日、東京府北豊島郡日暮里村 (東京都荒川区東日暮里) の自宅で直腸がんにより死去、満67歳。  墓は青山霊園

 繁子と外吉の長男/瓜生武雄は、難関の海軍兵学校を169名中6番の成績で卒業 (海兵35期) し、将来を嘱望されていた。
 明治41(1908)年4月30日、海軍少尉として搭乗した防護巡洋艦/松島が爆発事故により沈没し、殉職 (満23歳)。 墓は母/繁子の隣

明治44(1911)年

 兄/健次郎が、九州帝国大学の初代総長になる。

大正2(1913)年

 兄/健次郎が、再び東京帝国大学の総長になる。
 同年、男爵となる。

大正5(1916)年

12月10日
 夫/巌が胃病から胆嚢炎を併発、75歳で死去。
 愛妻/捨松に看取られながらの最後だった。

12月17日
 夫/巌の国葬。

 夫/巌の国葬の後は、公の場に出なくなった。
 しかし、津田梅子が病気で倒れ女子英学塾が混乱していると聞き、自らが乗り込み陣頭指揮をする。

大正8(1919)年

2月18日 (2月17日とも)
 世界中で大流行したスペイン風邪がもとで死去。
 59歳。
 混乱していた女子英学塾の運営を切り盛りし、新塾長の就任を見届けた翌日のことである。

 おしどり夫婦として有名だった。
 夫/巌は、捨松を大切にした。
 結婚後は、芸者遊びも控え、家族との時間を大切にしたという。
 先妻の3人の母となった捨松は、自分の産んだ3人と合わせ6人の子供を立派に育て上げる。
 2男5女の家に生まれ、ベーコン家の14人の中で成長した捨松にとって、大変だったろうが苦にしなかったようだ。
 自邸を新築した際、欧州カブレで有名な巌は、全てドイツ風してしまった。
 多感な時期を米国で過ごし帰国後に苦労した経験を持つ捨松は、子供たちが日本の慣習を知らないのでは将来が心配と、すべての子供部屋を和風に直した。
 譲れないものは譲らない意志を持った女性でもあった。

 捨松が米国へ向けて留学のため出港した翌日、巌が同じ横浜港からスイスのジュネーヴへ向けて留学のため出港している。
 夫婦になる運命だったのかも知れない。

捨松の墓

 晩年、開墾にあたった栃木県西那須野に、夫とともに眠っている。  墓石には、「従一位大勲位公爵大山巌夫人勲四等捨松之墓」とある。
捨松の墓  一般公開はしていない。

 夫/巌と同じ砲弾型の墓石で、やや小さいが輝いているように見える。

 ▲(栃木県那須塩原市下永田2-3)

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