殉   難   者   伝

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松 平 容 保 公 の 概 歴

 大藩へ養子に入り、穏やかな未来が待っているはずだった。
 背徳的な輩の暗躍する時代が到来、20歳台の若き藩主には荷が重すぎた。
 保身を謀る松平春嶽の脅迫にも似た執拗な論理のすり替えに、心が乱れる。
 加えて、養子という立場が故に、藩を想うあまり無理を強いた。
 有事には彦根藩主/井伊家が京都守護職に就任する定めなのだが、
藩主/井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される不運も加わった。
 藩祖の家訓に追い込まれ、敢えて火中の栗を拾う道しかなかった。
 「遇直なまでに至誠な人」は、責任逃避に汲々とした宗家にも裏切られる。
 孝明天皇だけは、「遇直なまでに至誠な人」を見抜いておられた。

≪ 至 誠 に 奉 ず る 時 代 ≫
天保6(1836)年
12月29日  高須藩主/松平義建の6男として、江戸四谷の高須藩邸で生れる。
 幼名は_之丞。 母は側室の古森氏。
  
天保14(1843)年    9歳
   後に正室となる敏姫が鶴ヶ城で生まれる。
 唯一、成長した松平容敬公の実子である。
  
弘化3(1846)年    12歳
4月27日  8代藩主/容敬公の養子に入り世子となる。
 容敬公も高須藩の出身 (公式には松平容住公の3男) で、叔父にあたる。
8月15日  12代将軍/徳川家慶に初めて拝謁する。
12月16日  従四位下・侍従兼若狭守に任じられ、_之允から「容保」に改名する。
  
嘉永3(1850)年    16歳
   義姉/照姫が、豊前中津藩主/奥平昌服に嫁ぐ。
 天保3(1833)年12月13日に親戚筋である上総飯野藩主/保科正丕と側室/佐々木民との娘として誕生し、後に容敬公の養女となり義姉になる。
 正式名は「煕姫 (ひろひめ)」であるが、通称名は「照姫」。
 以下「照姫」と記す。
  
嘉永4(1851)年    17歳
5月      江戸を出て、初めて会津入りする。
  
嘉永5(1852)年    18歳
2月 7日  会津藩の相続を認可される。
2月10日  容敬公が死去。 47歳。
閏 2月25日  会津藩9代藩主となり、肥後守に任じられる。
12月16日  左近衛権少将に任じられる。
  
安政元(1854)年   20歳
2月 7日  義姉/照姫が豊前中津藩主/奥平昌服と離縁し、江戸藩邸に戻る。
  
安政3(1856)年    22歳
9月19日  容敬公の5女/敏姫 (14歳) が正室となる。
  
万延元(1860)年   26歳
3月24日  桜田門外の変が勃発。
 水戸藩討伐の裁定に反対し、幕府と水戸藩との調停に尽力する。
  
万延元(1861)年
10月      正室/敏姫 (容敬公の娘、宝鏡院) が死去。 19歳
  
文久元(1861)年   27歳
12月12日  左近衛権中将に任じられる。 これ以降、会津中将と称される。
  
文久2(1862)年    28歳
5月 3日  14代将軍/徳川家茂に拝謁、幕政参与に就任する。
5月28日  京都所司代の内命を固辞する。
6月    
〜8月
 松平春嶽が脅迫ともいえる京都守護職就任を迫り続ける。
  ・5月 8日、春嶽と幕政参与として初会見をする
  ・7月28日、江戸詰家老/横山主税を呼び出し京都守護職内命を伝える
  ・8月 6日、横山主税宅に使者を送り京都守護職就任を説く
  ・8月 7日、京都守護職就任を強要する書面を送り付ける
  ・8月 8日、病気で登城できない容保の藩邸を訪れ、京都守護職就
       任を直々に説得
        この時に、会津藩の家訓を引き合いに出す
7月27日  京都守護職の設置が決定される。
7月29日  京都守護職の就任を固辞する。
8月 9日  江戸詰家老/横山主税が京都守護職就任の条件を春嶽に提示する。
  ◇ 浪士対策は幕府が決めるべき
  ◇ 将軍/家茂の早期上洛、むしろ将軍が就任すべき
  ◇ 京都所司代の人事
 翌々日の11日に春嶽は老中らと協議したが、方向は決定されなかった。
 12日に条件の1つ/京都所司代に長岡藩主/牧野忠恭の登用を決定する。
8月19日
〜20日
 国許家老/田中土佐西郷頼母江戸藩邸に呼び寄せ、京都守護職就任について評議する。
 「火中の栗を拾うようなもの」
 「薪を背負って火消しをするようなもの」
と家臣一同から大反対される。
8月20日  評議の席上、京都守護職の拝命を決意する
   「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり
 大反対であった家臣一同も覚悟を決めた。
 奇しくも、実父の美濃高須藩主/松平義建が死去した日であった。
8月24日  横山主税から老中/水野和泉守へ京都守護職就任の内諾を伝える。
閏 8月 1日  京都守護職に就任し、正四位下に任じられる。
12月 9日  江戸を出発し、京へ向かう。
12月24日  京都守護職として藩兵1千名を伴って上洛、金戒光明寺に入る。
 京都警備の担当/所司代などの幕府組織・9大名は今まで通りの独立したまま存続しており、京都守護職という肩書きだけで全権を委任されていない形での上洛であった。
 この時点では、近々上洛する予定であった将軍/家茂の滞京が前提であったからである。
 7ヶ月後に全権委任される。
  
文久3(1863)年    29歳
1月 2日  初めて参内し小御所で孝明天皇に拝謁、天盃と緋の御衣を賜る。
 さらに、「これを戦袍あるいは直垂に作るべし」と直の御言葉まで賜り、同席者らは孝明天皇が大変な信頼・好意を寄せているのを知った。
 感激した容保は、すぐさま陣羽織を仕立て撮ったものが、今に残る陣羽織姿の著名な写真である。
1月 7日  公用局を新設する。
2月11日  会津藩士三組を設け、夜間の巡邏をさせることにした。
 組頭・物頭の下に小頭1人・甲士7人・与力7人・足軽5人の21人を3組。
  「法度を犯す者は捕縛すべし もし反抗の甚だしき者あらば
   便宜斬殺するも可なり

 すぐさま「天誅」と称する騒ぎは収まり、市中の夜市も再開された。
2月19日  学習院警衛の任にあたるよう偽勅を受ける。 尊攘急進派の罠だった。
3月 4日  将軍/家茂が上洛し身辺の警護にあたるが、4月21日に大坂へと退京し5月11日まで戻らず、6月13日には海路江戸へ帰ってしまう。
 実兄の前尾張藩主/徳川慶勝 (慶恕) らなども6月21日に帰国してしまい、守護職就任時の約束は完全に反故にされたうえ、唯一の幕府側として孤立していく。
3月10日  芹沢鴨・近藤勇たち残留を望む浪士17名が、見廻組/佐々木唯三郎 (只三郎) の執り成しで、容保宛の嘆願書を提出する。
3月12日  残留を望む近藤勇ら浪士組17名の会津藩預りが決まる。
3月15日  追加参加を併せ浪士組24名が、正式に会津藩預り (壬生浪士組) になる。
3月16日  近藤勇たち残留浪士組が、京都守護職邸で容保にに拝謁する。
5月14日  御所近くで火災が発生、容保自ら3隊を率いて御所の警備につく。
5月15日  朝廷から近隣火災時の「御所外講九門外警備担当・御所内講六門警守担当」が各藩に示される。
 会津藩は、西側3門 (唐門・清所門・准后門前) の警守となる。
5月25日  朝廷からの命により、姉小路公知の暗殺犯として薩摩/田中新兵衛と似礼源之丞を捕縛し、町奉行所まで送り届け引き渡す。
 田中の宿に赴き、名刺を渡して身分を明らかにして中に入り、朝命を伝えて説得した上で同行させている。
 公用人/外島機兵衛は、抗議にやってきた薩摩藩/内田政風らに対して、
 「天朝の特命は捕縛にあり されど相互武士道を重んずるが為めに、朝命を宣べて 同行せしに過ぎず 想ふに貴藩 もし此命を奉ぜらるえば 又此の如きの他ならん
と逆に諫めた。
7月24日  朝廷から、同月28日に御所建春院門前で天覧馬揃えの命が下る。
 この不穏な時期の調練は好ましくないと願い出たが、孝明天皇が楽しみにしているとのことで聞き入れられなかった。
7月25日  「東下&攘夷貫徹周旋」の偽勅が届く。
 真意を知ろうと活動したが、公家たちによって阻まれる。
 翌々日の27日に孝明天皇から東下を望まないとの宸翰を受取り偽勅と判明、容保を京都から退去させようとの謀略だった。
7月30日  28日は雨天で順延され、この日も雨天だったため順延と思っていたら決行を望まれていると告げられる。 準備不足との願いも聞き入れられず、藩士800名による馬揃えが実施されたが、1度目の馬揃えを終えた時に夜になってしまい中止となる。 強行したのは会津藩に恥をかかせようとした計略であったが、孝明天皇が大満足したため失敗に終わっている。
8月 2日  孝明天皇より、天覧馬揃えの際の手際のよさが称賛され、錦陣羽織地二巻と白銀200枚を賜る。
 同日の夜、孝明天皇は密かに使者を送り、武備十分に行き届き、事に臨んで支障がない様を深く頼もしく思う」を口達させた。
 「兼て武備十分に行届、事に臨み無差支段、深御頼敷
8月 3日  再度の天覧馬揃えを行うようにとの朝命が下る。
8月 5日  会津・阿波・因幡・備前・米沢藩による天覧馬揃えが実施される。
 前回の馬揃えで賜った錦を陣羽織に仕立て着用し采配をふるった。
 孝明天皇のただならぬ気配を感じた容保は、不測に備え密かに武器類を御所内の凝華洞(お花畑)に搬入した。
8月13日  秋月悌次郎から、薩会秘密同盟の承諾の報告を受ける。
 帰国途上の藩兵を、呼戻すよう命じる。
8月18日  「八月十八日の政変」で薩摩藩と協力し、長賊ら尊皇攘夷派を京都から追放した。 これにより、公武合体派が勢力を強める。
 鳥羽伏見の戦いでは、裏切った薩摩藩が この時の手順などを逆に手本として用いた。
8月21日  壬生浪士に対し、市中見廻りを昼夜通して実施するよう命じる。
9月28日  朝廷から、京都に潜伏しているテロ集団/長賊らの取締を命じられる。
10月 9日  孝明天皇から政変の功を嘉賞され、内密に御宸翰と御製を下賜される。
 容保は、生涯を通して肌身離さず持ち続けた。
10月15日  新選組から録位辞退の上書が、公用方に提出された。
12月30日  朝廷が任命した朝議メンバーによる「参預会議」が設立される。
  ◇ 容保
  ◇ 一橋慶喜 (将軍後見職、一橋徳川家当主)
  ◇ 松平春嶽 (前/越前藩主)
  ◇ 伊達宗城 (前/宇和島藩主)
  ◇ 山内容堂 (前/土佐藩主)
  ◇ 島津久光 (薩摩藩主/島津斉興の5男、翌年の1月13日に任命)
 二条城で討議し参内して、天皇の簾前にて朝議に参加する役目。
 京都守護職で在京していたものの、現役の大名は容保だけだった。
  
文久4(1864)年   30 歳
1月 4日  参預会議のメンバー顔合わせのため参内する。
1月 5日  参預会議のため参内する。
1月 8日  参預会議のため参内する。
1月11日  病気のため参預会議を欠席する。
1月13日  病気のため参預会議を欠席する。
1月17日  病気のため参預会議を欠席する。
1月18日  凝華洞で病床に伏していた容保に、将軍/家茂から見舞いの使者が遣わされ菓子を賜る。
1月25日  参預二条城会議に出席する。
1月28日  病気のため参預二条城会議を欠席する。
2月 1日  四条大橋東詰に、会津藩と新選組を批判する高札が、何者かによって建てられた。
2月 2日  病気のため参預二条城会議を欠席する。
2月 4日  新選組に恩賞金を与える。
2月 8日  病気のため参預二条城会議を欠席する。
2月10日  将軍/家茂は、会津藩に5万石の加増の沙汰を下す。
 風邪のため登城できず、家老/神保内蔵助を代理登城させていた。
 翌日11日に加増の辞退を申し出る。
2月11日  京都守護職が免じられ、陸軍総裁職に就任する。
 (補) 幕府が松平春嶽に京都守護職を命じる。
2月12日  朝廷組織の最高機関の1つである参議に任じられるも固辞する。
2月13日  病気のため参預会議を欠席する。
 陸軍総裁職が軍事総裁職と名称変更される。
2月15日  病気のため参預会議を欠席する。
2月16日  病気のため参預会議を欠席する。
 孝明天皇から伝奏野宮定功を通し、再び内々の守護職復帰を望む旨の宸翰が届けられる。
元治元(1864)年
2月11日  病気のため京都守護職を辞任する。
2月24日  病気のため参預会議を欠席する。
2月28日  将軍/家茂が、奥医師を容保に遣わす。
3月 2日  病気のため参預会議を欠席する。
3月 4日  病気のため参預会議を欠席する。
3月14日  今後は御用の際に参内せよとの沙汰で、参預会議が廃止される。
3月16日  孝明天皇から 秘密の宸翰が届けられる。
3月28日  病気の理由で、京都守護職再任の辞退を願い出る。
4月 6日  孝明天皇が幕府に、容保を京都守護職に復職させるよう勅を下す。
4月 7日  松平春嶽の京都守護職辞任。
 家老を名代として登城させるようにとの指示があり神保内蔵助が登城すると、京都守護職復職及び軍事総裁職罷免が命じられる。
 病床にあることで直ちに辞退書を提出させたが、受理されなかった。
 11日にも家老/横山主税及び神保内蔵助を登城させ、辞職願を提出。
4月14日  幕府は京都守護職辞職願を却下し、病が癒えたら出勤するよう命じる。
4月15日  将軍/家茂は、小納戸/木村紀伊守を見舞いの使者として派遣し、親書と見舞品を贈る。
4月18日  病気回復の時期が不明のため迷惑がかかるとして、京都守護職の辞職願を再び提出する。
4月20日  幕府は京都守護職の辞表を再び却下し、治癒した後に復帰すればよいとする裁定を下す。
4月22日  京都守護職の復職を承諾する。
5月 5日  将軍/家茂から、鞍鐙を下賜される。
5月11日  病気療養のため、寺町から黒谷本陣に移る。
6月10日  幕府からの命で池田屋事件の残党捕縛の探索中に、藩士/柴司が誤って土佐藩士/麻田時太郎を槍で負傷させてしまう。
 土佐藩との協力関係悪化を心配し、公用人/手代木直右衛門と小室金吾左衛門、藩医/渋沢昌益を土佐藩邸に派遣し、麻田の傷の診察をさせる。
 しかし、翌11日、現場で逃走した上、後ろ傷だったために土佐藩が「士道不覚悟」と恥じて麻田を切腹させてしまう。
 12日、事態の処理に苦慮する藩主のため、兄の介錯で柴司は切腹して果てた (明保野亭事件)。 墓は黒谷
6月27日  病を押して参内し、孝明天皇に長賊の襲来を奏上する。
 長賊の入京拒否せよとの勅があり、御所内の凝華洞を仮本陣とし、御所九門諸藩に門の閉鎖を命じて警戒にあたる。
6月29日  孝明天皇が 長賊の入京宜しからずの宸翰 (勅命) を下す。
7月19日  長賊らによるクーデター「禁門の変 (蛤御門の変、元治の変とも)」が勃発、薩摩藩とともに朝敵/長賊らを撃退する。
8月23日  しばらく禁門内の凝華洞で宿衛する事を命じられる。
10月 9日  夜半、孝明天皇の密命で二条斉敬右大臣が訪れ、御宸翰と御製が届く。
 口上の際、容保を賞揚したいのだが、1人だけ賞揚したのでは物議を醸してしまうだろうから、感謝と信頼の証の宸翰と御製である、と。
  
慶応元(1865)年   31歳
1月30日  将軍/家茂の上洛を促すため、東下を朝廷に願い出る。
2月 1日  東下の願いが勅許される。
2月 4日  老中を東下との内旨があり、翌日5日に東下の勅許が撤回される。
2月 9日  新選組副長/土方歳三が東下を願い出てきたが却下する。
3月 1日  病のため、本陣を黒谷へ戻す。
3月 9日  将軍/家茂の上洛が難しいとの報に、急ぎ上洛すべきと説く。
3月15日  再度、将軍/家茂の上洛を書面にて説く。
3月25日  日光東照宮勅会の終了まで、将軍/家茂の上洛を猶予するとの報あり。
3月29日  将軍/家茂の上洛の猶予を奏請する。
4月 2日  将軍/家茂の上洛を要請するため、公用人/外島機兵衛を東下させる。
4月 8日  病状が少し回復したため参内する。
 将軍/家茂の上洛を促すため、井深宅右衛門を東下させる。
4月24日  滞京の経費が甚大となり、毎月金1万両の給与を幕府に請う。
4月28日  召されて参内し、病状回復を祝される。
5月22日  幕閣内が長賊らの処分で意見対立したため、慎重な対処を提言する。
5月28日  大坂に下る。
閏5月26日  再び、大坂に下る。
9月21日  将軍/家茂に従い参内する。
9月 1日  京都下立売に京都守護職上屋敷が完成する。
9月29日  慶喜・定敬とともに下坂を願い出るが、容保だけには許可が出ず。
10月 3日  将軍/家茂が大坂から帰東の報で、徳川慶喜・松平定敬とともに 伏見で迎え、東帰を諌止する。
10月 4日  朝議により、参内する。
10月 7日  幕府から、幕政に参与するよう命じられる。
12月22日  近藤勇の報告を受ける。
  
慶応2(1866)年    32歳
1月22日  一橋慶喜、松平容保、松平定敬、板倉勝静、小笠原長行が参内し朝敵/長賊らの処分案 (削封十万石・藩主親子は蟄居) を上奏し許可される。
6月 1日  近藤勇らが黒谷本陣へ、病気見舞いに赴く。
7月19日  将軍/家茂に見舞い品を送る。
 第2次長州征伐の途上、大坂城で急病に倒れ、典薬寮や奥医師らの賢明な手当ても効なく 7月20日に死去した。  享年21歳。
11月27日  松坂鯛二が叔父/原掟之進の助太刀で、父/三内の仇を討つ報を受ける。
 文久3(1863)年、公用局/松坂三内平向熊吉が公用出張中、天誅組の仲間と間違われ、大和国郡山藩軍奉行/薮田極人に射殺された。
12月18日  病に臥した孝明天皇を見舞う。
12月21日  将軍/慶喜が、容保・桑名藩主/松平定敬のご機嫌伺いに参内する。
12月25日  夜半に、宮中が異様な雰囲気との報を受ける。
12月26日  孝明天皇の見舞いを願い出るが謁見できず、「益御機嫌能被成為候 (益々ご機嫌が良くなっておられる)」との御容態書を渡される。
12月28日  孝明天皇が岩倉具視と妹の女官/堀河紀子によって毒殺され、宮中の近侍者らが大混乱しており、何故かご遺体は俯せにされているとの伝聞を得る。
12月29日  孝明天皇が、崩御 (4日前の25日) と発表された。
 暗殺されたという話題の他にも、口にするのも憚る恐ろしい話しが宮中に渦巻いていた。
  
慶応3(1867)年   33 歳
1月      京都守護職を辞任し、帰国することを表明する。
1月17日  登城を拒否し、帰国の準備を進める。
2月18日  将軍/慶喜から、思い止まるよう親書が届く。
3月  徳川慶喜の弟/松平喜徳公を養子に迎える。
3月11日  執拗な命で登城はするが、帰国の意思は変わらないことを告げる。
4月 9日  朝廷に帰国の許可を願い出るが却下される。
4月23日  参議に就任、会津宰相と称される。
6月13日  新選組隊士10名から、京都守護職邸に嘆願書が届く。
6月26日  加賀藩主/前田慶寧の長女/礼姫と結納を交わす。
 戊辰の役の勃発で履行されず、明治4(1871)年に婚約が解消される。
10月14日  将軍/慶喜が政権返上を上奏 (大政奉還) する。
12月 9日  王政復古の大号令。
 幕府が廃止され、京都守護職・京都所司代・摂政・関白も廃止。
12月11日  新選組に対して、伏見奉行所に屯所を移すよう命じる。
12月12日  将軍/慶喜のいる大坂城に、桑名藩主/松平定敬、備中松山藩主/板倉勝静たちと入る。
<当家の伝承による> .
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