戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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明治元(1868)年 23日〜

≪ 終 戦  そ し て 開 城 ≫

 開城をしても、しばらく戦死者は出た。
 戦死と記載されていても、多くの者が虐殺された者といわれる。
 藩士は若松から離れた猪苗代と塩川で謹慎と称する捕虜の身、為すすべがない。
 まもなく遠く離れた東京と越後/高田藩へ移送され、会津での情報は遮断された。
 戦いが終わると、殺戮による略奪が始まった。
 男女老幼を殺し、強姦などは公然のこととして行われた。
 官賊の各陣所には、拉致された町民や農民の婦女子であふれていたという。
 「敵刃に屠られ、又は西軍に酷使、凌辱せられしも幾百幾千なるを知らず
 家財などの略奪は凄まじく、「長州分捕」「薩州分捕」と公然と標札を立てる有様であった。 愛宕町の質屋/森田七郎右衛門の土蔵などは、備前兵との分捕り争いで不利となった薩兵によって爆破された。 家財の返却を哀訴しても応じるどころか、逆に財貨を運ばせる使役を強要した。
 武器も持たない町民や農民などが、贋金造りの冤罪で取り調べもされず処刑された。
 わざわざ自宅前に連れて行かれ、母子の前での公開処刑された者は50人を超えた。
 戦いは終ってしばらく経つと、さすがに殺戮による略奪は難しくなった。
 お宝を買い叩くため、“の雑兵が造った贋金なのに” と噂された。

 9月23日

馬場佐兵衛 62歳  河原田精神隊  9月23日、南山口で戦死

 9月24日

石川吉四郎 21歳  河原田精神隊  9月24日、伊北で負傷し病院で死去
大島音之助    蔵入役人  9月24日、南山大芦で戦死
乙之助  
喜三郎  川口村の農民 組頭
角田五三郎23歳 助次郎の伜 朱雀士中三番小野田隊 9月24日、大芦村屋敷原で戦死  大芦
野村新平25歳 朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭 9月24日、大芦村矢ノ原で戦死
  矢ノ原  大芦   大窪山
佐藤音之助  朱雀寄合三番隊道案内兼斥候 9月24日、下中津川で戦死  大芦
渡部長吉35歳 大砲一番鈴木隊付 足軽 9月24日、南山滝原で戦死
向山利信   9月24日、戦死  大窪山

 9月27日

鈴木いち 46歳  八郎の妻  9月27日、河沼郡東原で自刃
北村直衛49歳 遊撃小山田隊頭大目 (組頭) 9月27日に青木病院で死去  建福寺

 9月28日

渡部喜平 53歳  高田代官所帳付  9月28日、高田上野で戦死

10月 3日

横田左馬之助 29歳  山内大学の家来  10月3日、野尻で死
善蔵(横田俊憲)   10月3日、野尻で虐殺  横田
飯沼粂之進一孝69歳飯盛山で蘇生した白虎隊士/飯沼定吉の祖父 10月3日、御山病院で死去 (籠城戦で負傷)

10月 5日

阿久津安之助   今市/瀬尾村の村人 徴用兵  10月5日、会津で戦死 (虐殺か)  明静寺

10月 6日

河村謙益の妻      10月6日、子を見失い自殺
間瀬岩五郎の妹 19歳    10月6日、御山で死
間瀬ユウ  

10月 9日

武川(むかわ)三彦 24歳  内藤介右衛門の弟  10月9日 江戸/小塚原処刑場で処刑
  泰雲寺

10月11日

押田鉄太郎 23歳  弁治の嫡孫 朱雀寄合四番山田隊  10月11日、大豆田で死

10月 (詳細不詳)

安藤孫市 57歳  徒士  10月、院内で戦死
篠田兵庫45歳 奏者番・小隊頭 篠田儀三郎の父
 10月、香塩村で戦死 (惨殺とも)

11月 2日

鈴木平七 (平吉とも) 42歳  清吉の弟
 戦傷のため、11月2日に雨屋で死去

11月 5日

赤羽音吉 26歳  回天隊幕臣/浅倉早之助隊  11月5日、蝦夷/福山城内で戦死  法華寺

11月24日

田口治八 60歳  御用所密事頭取・国産奉行  10月12日に捕えられ11月15日に釈放されるが
  同月24日に毒殺

11月 (詳細不詳)

小池帯刀 48歳  工兵隊頭  11月、七日町で死



明 治 2 (1869) 年

 4月11日

高木十郎      明治2年4月11日、斬殺され、さらし首

 4月12日

下司伊兵衛 42歳    明治2年4月12日、謹慎地/高田で死去
  建福寺

 4月20日

大庭久輔 24歳  回天隊幕臣/浅倉早之助隊  明治2年4月20日、病気で戦えなくなり法華寺境内で自刃  法華寺

 4月29日

安部井政治 34歳  仲八の養子 会津遊撃隊/差図役  明治2年4月29日、蝦夷/矢不来で戦死
斎藤主税  会津遊撃隊/嚮導
坂綱  会津遊撃隊/差図役
里見重吉  会津遊撃隊
三瓶(さんべ)桃助  
野村源六33歳 会津遊撃隊/調方・軍事方
林勝五郎  会津遊撃隊/差図役
松川信平  会津遊撃隊
吉沢才五郎  会津遊撃隊/調方
古沢友三郎  会津遊撃隊
渡部庄蔵24歳 会津遊撃隊/嚮導
並川亨  会津遊撃隊/差図役並 4月29日、松前/矢不来で戦死
 5月15日に降伏 (彦根藩へ幽閉) とも
諏訪常吉37歳 公用人 会津遊撃/隊長 明治2年4月29日、蝦夷/福山で負傷し
  5月16日に箱館病院で死去
  実行寺円通寺
成瀬金之丞  会津遊撃隊 明治2年4月29日、蝦夷/福山で負傷し
  後に治療中の病院でに惨殺される

 5月11日

重条幸吉    会津遊撃隊  明治2年5月11日、蝦夷/亀田で戦死
木下見蔵  函館病院調役 会津遊撃隊 明治2年5月11日、蝦夷/高竜寺分院で斬殺
松田介一24歳 大砲教示方 明治2年5月16日、蝦夷/函館で戦死

 5月18日

萱野(かやの)権兵衛長修 40歳  家老  明治2年5月18日、東京/飯野藩邸で切腹
  興禅寺   天寧寺   殉節碑   遥拝碑

 5月24日

能見伝治    武之助の弟 鉄治の養子  明治2年5月24日、東京/浅草で捕殺

 5月 (詳細不詳)

斎藤豊之進    衝鋒隊指図役  明治2年5月、蝦夷/松前で戦死

明治2(1869)年 (詳細不詳)

佐生作左衛門    遊撃隊  明治2年、蝦夷/江差で戦死



明 治 3 (1870) 年

 5月24日

熊見武一郎    斗南藩士 雲井竜雄党  明治3年12月28日、東京で斬死
原直鉄23歳 斗南藩士 雲井竜雄党
簗瀬(やなせ)勝吉26歳 斗南藩士 元会津藩側用人 雲井竜雄党
加藤竹蔵 35歳  陸奥斗南藩卒 雲井竜雄党  5月、拷問で獄死
啓範48歳 会津若松自在院僧 雲井竜雄党

 6月22日

伴百悦 44歳  佐太郎の長男   明治3年6月22日、占領高官を斬殺し
  越後/新津大安寺村で自刃
  慶雲庵   善龍寺   束松

 7月 (詳細不詳)

田辺軍次 21歳  副総督/横山主税の近習  明治3年7月、白河で裏切り者を斬殺し
  その場で自刃  松並



明 治 4 (1871) 年

 5月 1日

郡 長正 16歳  家老/萱野権兵衛長修の次男  明治4年5月1日、会津武士の名誉のため切腹
  天寧寺

 7月10日

板井義清 37歳  大法寺住職  明治4年7月10日、捕縛後に斬首



明 治 10 (1877) 年

≪ 西 南 戦 争 ≫

 西南戦争勃発と同時に、全国に散っていた藩士たちが参集したと云う。
 旧会津藩士と知られれば、まともに生きられない世の中であった。
 すでに、姓名を改称した者も多かった。
 家族のために、元会津藩士とは名乗らない者も多くいた。
 今となっては、何人が従軍し、何人が戦死したのかは知る由もない。


佐川官兵衛 47歳  豊後口第二号警視隊
  /副指揮長兼一番小隊長
 明治10年3月18日、熊本/阿蘇郡で戦死
  長福寺   顕彰碑
赤羽真忠25歳 第二号警視隊一番小隊 明治10年3月23日、熊本/立神山の戦い
  で負傷し、4月14日に死去
石井留吉27歳 第二号警視隊一番小隊 明治10年4月6日、熊本/平野畠で負傷し、
  4月15日に死去
五十嵐貞松31歳 別働第三旅団新徴募六番小隊
 耶麻郡の農民
 明治10年5月11日、熊本/高岳山で負傷し、
  6月18日に死去
伊藤清次  津川の人 陸軍兵卒 明治10年、戦死
牛来定綱  別働第三旅団徴募七番小隊 明治10年7月8日、鹿児島/噌唹郡で負傷し、
  8月4日に死去
小川勝次郎22歳  京町口で負傷し3月20日に病院で死去
河野通信20歳 警視第三号四番小隊 明治10年3月21日、熊本/鏡村で負傷し、
  4月16日に死去
神田豊治21歳 警視第三番小隊 明治10年3月28日、熊本/木留で負傷し、
  4月13日に死去
神田藤頼30歳 別働第三旅団徴募一番小隊 明治10年5月12日、熊本/深渡瀬で負傷し、
  5月31日に死
小岩長七郎27歳 別働第三旅団新徴募七番小隊 明治10年7月8日、鹿児島/萬田村で負傷し、
  8月5日に死去
小島原新造  大沼郡の人 明治10年、戦死
小平又作39歳 警視二番小隊 明治10年3月24日、熊本/木留で負傷し、
  4月6日に死去
斉藤源吾33歳 別働第三旅団輜重隊警視一番小隊 明治10年、負傷し、9月15日に病死
越直晴18歳 別働第三旅団第三大隊 明治10年、負傷し、8月13日に死去
半谷四郎24歳 別働第三旅団新徴募六番小隊 明治10年6月7日 熊本/温嶽で負傷し、
  6月17日に死去
樋口厳吾19歳 警視第四番小隊 明治10年4月12日、熊本/植木で負傷し、
  6月18日に死去
藤田正成25歳 別働第三旅団警視隊 明治10年6月7日、戦死
雪下熊之助  海軍少尉補 明治10年3月21日、肥後/船津海岸で戦死

 7月12日

永岡久命   38歳  思案橋事件に関与し、明治10年1月12日、
  鍛冶屋橋獄で拷問による獄死  大窪山


 昭和61(1986)年、「もう120年も経ったので」と、和解と友好都市締結を申し込んできた。
 謝罪が無しである。 受け入れることなどできる事ではあるまい。
 「まだ 120年しか 経っていない」 と、これを拒絶した。
 全国的にも、大々的に報道された。
 恥を掻いたと思ったようで、それ以降、作り話による言い訳や、根拠のない誹謗中傷が始まった。
 平成22(2010)年の悪意に満ちたTBS報道など、記憶に新しいであろう。
 すぐにTBSは深く陳謝した。 編プロから持ち込まれたものを、吟味せず放送してしまったようだ。

 異郷/会津の地で眠る自軍の魂が、大いに傷付くとは考えないのであろうか。


参考文献 ; 幕末維新全殉難者名鑑など  .
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