伝           記

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日本初の女性移民“おけい”

 “伊藤おけい”という町娘が、材木町に住んでいた。
 大工 (桶屋とも) /伊藤文吉とお菊の長女である。
 会津藩は戊辰の役に備え、ドイツ人のジョン・ヘンリー・スネルを軍事顧問に招聘した。
 藩主/松平容保より日本名の“平松武兵衛”が与えられ、近くに屋敷も提供された。
 日本人女性と結婚し子供が生まれたので、近くに住む“おけい”を子守りとして雇った。
 鶴ヶ城が開城して戦いが終わると、容保にゴールドラッシュに沸く米国/カリフォルニアで未来を開拓することを提案した。
 金鉱を探しながら、お茶を栽培し、桑の木を植栽して絹の産業を興そうとする案である。
 藩士と家族37名が、開拓団に加わった。
 その中に、子守役の“おけい”も加わっていた。
 アメリカ移民の日本女性第1号であった。

明治2(1869)年

 5月 1日
 17歳の“おけい”たちを乗せた米国船「チャイナ号」が、横浜港から米国へと向かった。

 5月20日
 米国/カルフォルニアに到着する。
 ゴールド・ヒルで農地を買い取り、「若松コロニー(Wakamatsu Tea and Silk Colony)」と名付けた日本人村を作った。
 しかし、お茶と桑の木は育たず、1年ほどで崩壊してしまう。
 スネルは、資金調達をするとのことで“若松コロニー“を出たが、再び戻ることは無かった。
 藩士たちは、スネルの言葉を信じ、しばらく待っていたが、やがて1人2人と“若松コロニー“から出て行った。
 子守りの“おけい”と元藩士/桜井松之助の2人は残り、スネルの帰りを待ち続けた。
 まもなく資金が枯渇し、“若松コロニー“は解体されてしまう。

明治3(1870)年

 “若松コロニー“は、ビーア・カンプに購入されてしまう。
 行くあてもない2人は、カンプの使用人として働くことになった。
 利発な“おけい”は、カンプに家族同様に可愛がられ、安らぎの未来が開けるかに見えた。

明治4(1871)年

 “おけい”は急な高熱に冒され、19歳という若さで死去した。
 夢を描いた入植地“若松コロニー”の見える丘に、桜井松之助が葬ったという。

10数年後

 15年後とも。
 桜井松之助など移民の生き残りの人たちによって、“おけい”の墓碑が建てられた。
 松之助も日本に戻ることなく、現地で 67歳の生涯を終えている。

大正4(1915)年

 カリフォルニアに住んでいた記者/竹田文治郎が、ゴールドヒルの丘に日本人の少女の墓があることを知る。
 訪れる人もいない墓には、「 O K E I 」 と刻まれていた。
 農場主ビーア・カンプに聞くと、日本移民団の少女だと分かる。
 日系新聞の記事にしたところ、大きな反響が湧き上がり、世間の知るところとなった。

太平洋戦争

 時代は下って、太平洋戦争中には日系人の多くが強制収容され、非人道的に扱われた。
 戦後に解放された日系人は、移民団の先駆者である“おけい”たちの苦難を改めて認識した。
 “おけい”の魂が故郷にも休める場所を設けようとの機運が高まり、生まれ故郷に墓碑を建てることが決まった。

昭和32(1957)年

「おけい」の墓(碑)

 生まれ故郷の背炙山/山頂の丘に、米国/ゴールドヒルの丘と同じ墓碑が追善建立された。
 周りを四季折々の草花に囲まれ、故郷の城下町を眼下に眺めて、安らかに眠っている。
 いつしか、その場所は 「黄金丘」 と呼ばれるようになった。
 昔、ケーブルカーの頂上駅があった場所である。
 ネットで墓参は、こちら。

昭和44(1969)年
 米国/ゴールドヒルに「日本移民百周年記念碑」が建立された。

おけい像

平成15(2003)年9月

太郎庵会津総本店の入り口に、 「おけい像」 が建立された。


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