会  津  の  歴  史  年  表

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江戸時代初期 (伊達〜蒲生〜上杉〜加藤家)

 蘆名氏を滅ぼした伊達政宗公は、会津の黒川城 (鶴ヶ城) に入り、中通り地方、山形県の南部、宮城県の南部を領し、南陸奥の諸豪族や、岩手県の一部を支配していた大崎氏や葛西氏も勢力下に入れ、全国的にも屈指の領土を有した。

 蒲生氏郷公も、会津、新潟県東部、福島県中通りの大半、山形県と宮城県の南部を領有し、徳川家康、毛利輝元に次ぐ、全国第3位の所領を持つ大名となる。

 上杉景勝公の時代には、さらに山形県庄内三郡や佐渡三郡をも領有し、歴史上もっとも広い領土で、120万石となる。


弘治元(1555)年
11月 27日   会津藩主となる上杉景勝公が、越後国魚沼郡上田庄の樺沢城で生れる。
弘治2(1556)年
      会津藩主となる蒲生氏郷公が生れる
永禄6(1563)年
      会津藩主となる 加藤嘉明公が生れる。
永禄10(1567)年
8月 3日   会津藩主となる伊達政宗公が米沢城にて生れる。
天正11(1583)年
      会津藩主となる蒲生秀行公が生れる。

天正17(1589)年
6月 5日   伊達政宗公が、櫂上原の戦いで蘆名義広公を破る。
      会津侵攻した伊達政宗公が、慧日寺 (磐梯町) に放火し焼失させる。
奇跡的に金堂だけ焼け残るが、その他の神社仏閣は大半が焼失。
6月 11日   摺上原で勝利した伊達政宗公が、蘆名氏の居城/黒川城に入る。
7月 4日   豊臣秀吉が上杉景勝公と佐竹義重に、伊達政宗公の討伐を命じる。
8月 17日   伊達政宗公は、秀吉に会津侵略弁明のため、家臣/遠藤不入斎を上京させる。
      養泉院が、僧/宥覚により現在地に移転。
      栄泉山一渓庵 (会津美里町) が、元慶寺と改称。
      旭田寺 (下郷町) が、僧/福蔵により長福寺として開山。
天正18(1590)年
      天海大僧正が、徳川家康に初めて謁見し絶大な信任を得る。
      天海大僧正が、江戸崎城主の招聘を受け、江戸崎不動院の住職を兼務。
4月 5日   伊達政宗公が毒を盛られるも、一命を取り戻す。
4月 5日   伊達政宗公が、毒殺を図った弟/小次郎を手討ちにする。
小次郎に家督を継がせようとした母のはかりごとであった。
8月 9日   秀吉が黒川の興徳寺に入り、小田原攻めに参加しなかった伊達政宗公から会津領を没収し、小田原討伐に功のあった蒲生氏郷公に与える。
これにて奥州が平定され、秀吉による日本統一が完成する。

      恵倫寺が、蒲生氏郷公により創建し、曹月存禅師により開山。
      愛宕神社が、蒲生氏郷公により現在地に戻す。
天正19(1591)年
6月     蒲生氏郷公が、九戸の討伐を命じられる。
7月 27日   蒲生氏郷公が、兵士23,000を従え、九戸へ向け会津を出発する。
9月1日に九戸の城を攻め落す。
文禄元(1592)年
1月 21日   会津藩主となる加藤明成公が生れる。
6月   城下町の大改造を開始。
      観音寺<大町>、金剛寺自在院実相寺清林寺本光寺<南町>、弥勒寺
融通寺蓮華寺が、蒲生氏郷公の町割りで現在地に移転。
      福証寺が、釈/玄海により草創。
      紫雲寺が、僧/中悦により草創。
      観音寺 (猪苗代町) が、越後/蘭室により現在地に再建、宗ァにより再び開山。
      蒲生氏郷公が、文禄の役で肥前名護屋に出陣。
文禄2(1593)年
      蒲生氏郷公が播磨国から瓦工を呼び寄せ、本郷焼が始まる。
6月 13日   蒲生氏郷公が黒川を若松と改称し、天守閣を望楼型の七層に改築して鶴ヶ城と命名する。
      城下町の大改造も完成する。
      田中稲荷神社が、奉祀。
      後に泰雲寺となる庵を、僧/雲嶺本龍が結ぶ。
9月 9日   大風。
文禄3(1594)年
      西福寺 (下郷町) が、僧/了順により開山。
検地の結果、所領は92万石と判明。
文禄4(1595)年
      後に滝沢本陣となる横山家主屋が建てられる。
2月 7日   蒲生氏郷公が京都で急死 (40歳)、遺髪が興徳寺葬られる
子の蒲生秀行公 (13歳) が家督を継ぐ。
7月 21日   蒲生秀行公が、会津に初めて入る。
慶長元(1596)年
      修験中常坊が、金山の桧原鉱山 (北塩原村) を発見。
      天海大僧正がが、無量寿寺北院 (後の喜多院) 住職に就任し再興に着手。
慶長3(1598)年
1月 10日   蒲生秀行公が、92万石から下野/宇都宮18万石に移封。
1月 20日   上杉景勝公が加増移封され、会津藩の藩主となる。
 (会津四郡、仙北八郡、田川遊佐、置賜、佐渡)

3月 3日   上杉景勝公が、会津に向けて、伏見城を出発する。
3月 24日   上杉景勝公が、石田三成とともに会津に入府する。
旧会津藩領、米沢などの出羽3郡、佐渡3郡を合わせて120万石となる
直江兼続は、米沢に入る。
      上杉謙信の墓が、越後/春日山城より鶴ヶ城内に移される。
      上杉景勝公に従って会津に来た菩提寺/林泉寺を越後から移築。。
      上杉景勝公に従った越後/弘長寺の僧/信随が、光徳寺を弘長寺と改称。
      長福寺が、僧/守応により草創。
      正法寺が、越後/天倫寺の僧により開山。
慶長4(1599)年
      常慶寺が、越後/常慶寺の慶巌により開山。
慶長5(1600)年
      大林寺が、天寧寺14世の住職/嶽翁怒山により隠居寺として草創。
2月 2日   [神指城]上杉景勝公が、神指ヶ原への築城を決める。
 この築城が、直江兼続の「直江状」へとつながる。
 出羽仙道諸城の修築を早期に行うよう督励する。
2月 10日   [神指城]上杉景勝公が、直江兼続に新城を築くよう命じる。
3月 13日   上杉景勝公が、養父/上杉謙信の二十三回忌法要をする。
3月 18日   [神指城]本丸の築城が開始される。 佐竹義宣が築城の職人300人を送る。
 総監/直江兼続の下、弟の大国実頼、普請奉行/ 甘槽景継が指揮を執る。
3月 21日   徳川秀忠より、書状が届く。
3月 23日   田島の藤田信吉が家康方に寝返る。この功績で長らく直轄領 (御蔵入) となる。
4月 13日   直江兼続宛に、家康から弁明の上洛を促す書状 (4月1日付け) を、僧/承兌が届ける。
4月 14日   直江兼続が、家康の返書を書く。
4月 27日   徳川家康が、会津出兵の意向を表明する。
5月 3日   上杉景勝公からの返書(直江状)を読んで激怒した家康が、諸大名に会津出兵を命じる。
5月 10日   [神指城]12万人を動員し、二ノ丸の工事が始まる。
6月 1日   [神指城]本丸の土塁と石垣、水掘、二ノ丸の土塁と水掘が完成。
6月 2日   徳川家康が、会津出征を関東の諸藩に通告する。
6月 6日   家康が大坂城に諸藩の将を集め、会津遠征の陣容と進路、担当を通達する。
6月 10日   上杉景勝公が、家康の会津遠征の報告を受け、部下に決戦の意を通達。
防備のため白河や横川、福島に家臣を派遣し、城の修理などを指示する
[神指城]臨戦態勢を命じ、堀に水を入れる。
7月 2日   徳川家康が、会津出征の途中で江戸城に入る。
7月 7日   徳川家康が、江戸城で会津出征の期日など、軍令を下す。
横川に防塁と、堂谷坂に陣を築く。
 佐竹義宣は、家康の命により棚倉/赤館城に陣を築くが、景勝公と通じ動かず。
7月 9日   白河城の芋川に急きょ城塁を修築し、兵士を増員し軍備を強化。
7月 21日   徳川家康が江戸城を出発し、会津攻めが開始される。
8月 5日   会津出征を中止した徳川家康が、江戸城に帰るため発つ。
8月 10日   上杉景勝公に直江兼続が、家康追撃を願い出るも許されず。
 「退く者を討つは、“義”に反する」
8月 25日   徳川家康が伊達政宗公に「百万石」の保証 (8月22日) をしたため、防御のため福島に増派兵する。
9月 3日   伊達政宗公から上杉景勝公と組したいとの願いがあるも、直江兼続は保留。
9月 13日   上杉景勝公が、最上義光の密約違反に対し、直江兼続に攻撃を指示する。
9月 15日   関ヶ原の戦いが勃発。 上杉景勝公は恩顧に報いるため西軍に就く。
9月 29日   関ヶ原の戦いで西軍が敗退した報により、直江兼続は全軍に退却を命ずる。
10月 1日   直江兼続が、長谷堂城の包囲を解き撤退する。
10月 3日   直江兼続が、荒砥城からも撤退し、会津へ引き返す
10月 20日   直江兼続が、鶴ヶ城に入る。
11月 3日   上杉景勝公が、本多正信らを頼って家康に謝罪する。
慶長6(1601)年
      淨教寺 (喜多方市) が、淨光寺として草創。
7月 3日   上杉景勝公が、直江兼続を伴って、京都に向けて出発する。
7月 24日   上杉景勝公が、京都に到着する。
8月 8日   上杉景勝公が、家康と会見。
8月 17日   上杉景勝公が、家康から米沢への移封を内示される。
8月 24日   上杉景勝公が、会津藩120万石から出羽国/米沢藩30万石移封と通告される。
8月 25日   蒲生秀行公が、会津藩60万を受領。

      安穏寺 (猪苗代町) が、猪苗代城代/関十兵衛により創建、僧/圓愚が開山。
8月 25日   蒲生秀行公 (19歳)が、鶴ヶ城に入る。
11月 28日   上杉景勝公の米沢への移封が完了。
慶長7(1602)年
      後に会津藩主となる蒲生忠郷公が生れる。
      高田/小俣の龍門寺の僧/翁吉が、角館から蘆名盛氏公の像を持ち帰って、
宗英寺に納める。
慶長8(1603)年
      蒲生秀行公の家臣/倉垣の支援により、良然が阿弥陀寺を開創。
      天海大僧正が徳川家康の帰依を受け、平将門の霊不動尊を要所に配置し、東海道五十三次の整備など仏法による江戸の都市造りに着手。
慶長9(1604)年
7月 22日   大雨のため各地で氾濫。
慶長10(1605)年
      長命寺が、教如上人により草創。
      秀安寺が、天寧寺の住職/恕山により草創。
2月     桧原山と石森から金鉱山が見つかる
慶長13(1608)年
      天海大僧正が、織田信長により疲弊した延暦寺の再興に着手。
慶長16(1611)年
8月 13日   大地震が発生。
8月 21日   再度の大地震が発生し、死者3千7百人を出す。
鶴ヶ城も倒壊する。
青津観音 (会津坂下町) が大地震で壊れ、現在の亀ヶ森古墳の後円部の頂上に再建。 越後街道が通行不可となる。
慶長17(1612)年
      恵倫寺が、鶴ヶ城/西の米代から現在の地に移築。
5月 14日   蒲生秀行公没 (30歳)。 嫡男の蒲生忠郷公が10歳で家督を継ぐ。

慶長18(1613)年
      蒲生忠郷公が、弘真院を創建。
    2年前の大地震で倒壊した鳥追観音堂が再建され、現在に至る。
6月 18日   後の名家老/田中正玄が生れる。
9月 2日   大風。
10月 5日   蒲生忠郷公と弟/忠知の兄弟が、江戸に向かい若松を出発。
10月 15日   蒲生忠郷公と弟/忠知の兄弟が、若松に帰る。
元和元(1615)年
      元慶寺 (会津美里町) が、現在地に社殿を建立し移転。
      長福寺 (只見町) が、水害により現在地に移転。
元和2(1616)年
      西光寺 (喜多方市) が草創。
      徳川家康が死去し、神号について「権現」「明神」の論争に勝利した天海大僧正が東照宮建立に着手。
元和3(1617)年
      大運寺が、寂誉上人により草創。
      東明寺が、本二之丁から大町名古屋町に移る。
      天海大僧正 が、コ川家康の霊柩を久能山東照宮から日光東照宮へ遷座する一式を執り行う。
元和4(1618)年
      本覚寺が、良乗上人により開山。
元和5(1619)年
      見性寺が、良然上人の隠居寺として草創。
元和7(1621)年
9月 20日   城下での浪人宿泊や請人、借金や口入れ、人身売買、夜番などについての藩令が出される。
      泰雲寺が、創建される。
      西光寺(西会津町)に、京都妙心寺の僧逸伝作「紙本著色蒲生氏郷像」が奉納。
元和8(1622)年
8月 16日   儒学者/山鹿素行が、浪人/山鹿高道の子として会津若松で誕生
元和9(1623)年
3月 20日   上杉景勝公没 (69歳)
4月 24日   天海大僧正が、常光寺を天台宗に改宗。
      正教寺が、伊予の栄玄により開山。
      実成寺が、日謡上人により現在地に移転。
      天王寺 (会津美里町) が、現在地に再建され移転。
寛永元(1624)年
      後に桂松院となる松園寺が、日舜により開山。
      円福寺 (下郷町) へ、「紙本着色胎蔵金剛両界曼荼羅」が寄進される。
      光照寺 (会津坂下町) が、僧/順覚により開基。
      天海大僧正が、江戸城の鬼門に当たる忍岡に寛永寺創建を発願する。
寛永3(1626)年
      唯一、戦火を免れた慧日寺金堂 (磐梯町) が、火災により焼失。
      金蔵寺 (西会津町) が、極入村に移築され再興。
寛永4(1627)年
      鴫山城 (南会津町) が廃城。
1月 4日   蒲生忠郷公が、鶴ヶ城没 (26歳)
 世継ぎがなく、蒲生家の会津藩統治は終わる。 弟/忠知は松山へ移封。

2月 10日   加藤嘉明公が、伊予国/松山より会津に移封となる。
5月 4日   加藤嘉明公が、鶴ヶ城に入る。
      法華寺が、加藤嘉明公に従い四国/松山の法華寺を移し、僧/日栄が開山。
寛永8(1631)年
9月 12日   加藤嘉明公が江戸で没 (69歳)。 嫡子の加藤明成公が家督を継ぐ。
寛永9(1632)年
      滝沢峠の修復/整備を開始する。
寛永13(1636)年
5月 24日   伊達正宗公が桜田の上屋敷にて没 (70歳)
寛永16(1639)年
      鶴ヶ城の大改修が着手される。
寛永18(1641)年
      鶴ヶ城の大改修が終了。 七層から五層塔型/白亜の総塗籠天守閣となり、幕期末まで威容を誇る。
      北宮諏方神社 (喜多方市) が、現在地に社殿を建立。
3月 15日   会津騒動が、幕府に知られる。
寛永20(1643)年
5月 2日   加藤明成公が、家臣/堀主水兄弟と争う会津騒動により、所領を没収される。
10月 2日   天海大僧正が天寿を全うし、寛永寺の子院/本覚院にて入滅 (108歳)
万治4(1661)年
1月 21日   加藤明成公没 (70歳)

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