会  津  の  歴  史  年  表

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幕 末  (松 平 容 保 公)

故なくして、時代に翻弄される。


天保6(1836)年
12月 29日   第9藩主/松平容保が、高須藩主/松平義建の6男として江戸で生れる。
弘化3(1846)年
4月 27日   松平容保が、松平容敬公の養子となる。
嘉永5(1852)年
2月 10日   第8代藩主/松平容敬公没 (47歳)

嘉永6(1853)年
閏2月 25日   松平容保が家督を継ぎ、第9藩主となる。 18歳。
6月 3日   ぺりー来航、舟を出し警戒のため取り囲み、警備に当る。
7月 8日   柴崎村 (西会津町) で出火し、焼失23戸。
7月 13日   西の空に彗星が現れる。 24日に消える。
9月 28日   小荒井村上町 (喜多方市) で出火し、焼失96戸。
10月     幕府から品川第二台場の防備を命じられる。
嘉永7年11月27日〜安政元(1854)年
1月 14月   房総警備を終え、品川第二台場の防備に就く。
安政2(1855)年
2月 3日   馬場名子屋町で火災。
6月 5日   愛宕町から出火、焼失1,690軒。
6月 19日   大暴風雨、大川が大洪水。
7月 7日   猪苗代本町 (猪苗代町) より出火、焼失15戸。
10月 2日   江戸大地震で上屋敷中屋敷が焼失 (死者165名)。
10月 22日   第10代藩主となる松平喜徳公が水戸藩に生れる。
 この年 60年来の大雪。  [逸話]
安政3(1856)年
5月 10日   赤留村 (会津美里町) から出火、焼失10戸。
 この年 押立温泉 (猪苗代町) が開湯。
安政4(1857)年
9月     川原町に舎密所 (製薬所) を設立。
 この年 蘭学所を開校。
      小塩村・塩生村 (下郷町) に人参干根製造所が設置。
安政5(1858)年
5月 11日   漆村 (北塩原村) の囲炉裏の不始末から出火、焼失61戸。
      光明寺 (喜多方市) の観音堂が再建。
安政6(1859)年
8月 13日   大暴風雨、洪水。
同月25日、野沢村 (西会津町) 洪水、苦水川氾濫。
9月   コロリ病が大流行。
9月 27日   幕府の蝦夷直轄地が6藩に分与され、警備や開拓を命じられる。
 江戸/品川湾第二砲台の警備が免除となる。
 東蝦夷/西別から西蝦夷/沢喜までが会津藩領となる。
 (今の標津、斜里、紋別)。 本営陣屋をホニコイ (標津) に設置。
 この年 小川窪村 (会津美里町) から出火、焼失30戸。
安政7年3月18日〜万延元(1860)年
1月 15日   種痘の奨励の令を発布し奨励。
2月 24日   鹿鳴館の華/山川捨松が、家老/山川尚江の末娘として生れる。
3月 3日   桜田門外の変が起こり、老中から書が届き、急きょ江戸に上る。
3月 18日   若松で大火、焼失560軒。
3月 19日   戸ノ口村 (猪苗代町) から出火、焼失14戸。
6月 28日   若松で大火、焼失1千数百戸。
10月 9日   陸奥・安房両地の内、預け地5万石余を越後国の内に転換され、陸奥国の分は預け地となる。。
万延2年2月19日〜文久元(1861)年
3月 16日   柳町より出火、焼失56軒。
3月 18日   上北小路町から出火、焼失560軒。
6月 29日   本一之丁から出火、東風にあおられ焼失1,300余軒。
飛び火して柳原町も40軒が延焼。
9月 20日   大登村 (三島町) で大火、焼失17戸。
9月 23日   本名村 (金山町) で出火し、焼失10戸。
10月     都沢村 (猪苗代町) で出火し、焼失35戸。
 この年 岩船郡・蒲原郡・三島郡・魚沼郡で5万石の領地が会津藩領に加わる。
前年に、安房・陸奥の領地と、越後国の地との交換を幕府に願い出ていた。
文久2(1862)年
8月 4日   猪苗代本町 (猪苗代町) から出火、代官所や安穏寺など70戸が焼失。

文久2(1862)年
閏8月 1日   松平容保が、将軍/慶喜から初代/京都守護職を命じられる。
12月 9日      〃     京都/金戒光明寺に向かう。
12月 24日      〃     1千人の藩兵を率い、京都守護職として上洛する。
文久3(1863)年
3月 13日   浪士隊 (後の新選組) が会津藩の配下となる。
3月 15日   永井野村上町 (会津美里町) から出火、焼失60戸。
6月 14日   西真行村 (猪苗代町) で出火、焼失11戸。
6月 29日   若松で大火、焼失1,200余戸。
8月 18日   朝廷内でクーデターが起こり、薩摩藩/島津久光ら尊攘派を京都から一掃。
10月 9日   松平容保が、孝明天皇から御辰翰を賜る。
11月 4日   南山領が預りから正式な会津藩領に編入 (通知は 10月15日)。
 この年 心清水八幡神社 (会津坂下町) の現在の社殿が造営。
      夷田村 (猪苗代町) で出火、焼失11棟。
文久4年2月20日〜元治元(1864)年
2月 8日   白沢村 (只見町) で出火、焼失5戸。
2月 11日   松平容保が、京都守護職を辞任。
3月 1日   後に「小公子」などを翻訳する若松賎子が誕生。
4月 7日   松平容保が病気を理由に固辞するも、再び京都守護職を命じられる。
4月 22日      〃    京都守護職に復職。
6月 5日   新撰組による池田屋事件。
7月 19日   禁門の変が勃発するも、大砲15門の威力により朝敵/長賊を制圧する。
京都市中が大火、焼失2万7513軒。 21日に鎮火する。
これ以降、銃砲を主力とする洋式軍制への改革を推し進める。
元治2年4月7日〜慶応元(1865)年
4月 24日   小荒井村 (喜多方市) から出火し、焼失74戸。
5月 22日   幕閣内が長賊の処分で意見対立したため、容保は慎重な対処を提言。
8月     近江1万5千石・和泉1万石・越後2万5千石が会津藩領に追加される。
9月 17日   農兵を募集し、農兵隊編成を開始する。
10月 1日   慶喜らと共に兵庫開港を天皇に上奏する。
      山本八重 (後の新島) が川崎尚之助と結婚、19歳であった。
慶応2(1866)年
      神明神社が、南町へ遷宮。
7月 20日   将軍/家茂が大坂にて急死 (21歳)。
田安亀之助 (徳川家達) を次期将軍として遺言したが、実現されなかった。
8月 8日   後之丁から出火し、焼失2,990軒 (孫右衛門焼け)。
8月 25日   小荒井村 (喜多方市) から出火し、焼失21戸。
11月 24日   赤留村 (会津美里町) から出火し、焼失16戸。
12月 25日   孝明天皇が崩御 (長賊・岩倉具視らによる暗殺)。 《Wikipedia》 《参考書籍》
 松平容保が後ろ盾を失うだけでなく、春宮にも波及し、長賊らの次の獲物が己 (会津藩) だと知る由もなかった。
 この年 高田村 (会津美里町) の上町・中町・下町で火災、龍隆寺など120戸が焼失。
      高田村 (会津美里町) の中町から出火、焼失60余戸。
      湯野上村 (下郷町) から出火、焼失35戸。
慶応3(1867)年
1月 29月   田中村 (喜多方市) の龍安寺が焼亡する。
3月     松平喜徳公が、松平容保の養子となる。
3月     田島陣屋で、南山の猟師や威筒所持者による農兵鉄砲隊が組織される。
3月 24日   五之丁の非人小屋から出火、焼失623軒。 4月19日とも。
9月 14日   幕府が全/山城国を朝廷に献上するため、山城国の会津領を返納する。
9月 24日   大芦村中組 (昭和村) から出火、焼失18戸。
10月 14日   大政奉還。
12月 9日   王政復古の大号令で、京都守護職が廃止となる。

慶応4(1868)年
1月 2日   鳥羽伏見の戦いが起こり、戊辰の役が始まる。 130余名が戦死。
1月 6日   淀藩や津藩が寝返ったため徳川慶喜はひそかに大坂城から江戸へ向かう。
1月 7日   〜、将軍・藩主が不在では戦えず、鳥羽伏見から撤収する。
1月 21日   幕領の蒲原郡と魚沼郡の内11万3千石余が預地となる。
1月 24日   上三宮村 (喜多方市) から出火、焼失4戸。
2月 4日   第9代藩主/松平容保が隠居し、養子の松平喜徳公が家督を継ぎ、徳川慶喜の寛大な措置を輪王寺宮へ願い出る。
2月 13日   神保修理が、鳥羽伏見の戦いの責を取り、箕田藩邸切腹する (31歳)
また1人、恭順派で優秀な人材を失う。
2月 16日   松平容保が、江戸を出発して会津に向かう。
2月 22日   松平容保が会津に到着し謹慎する。 恭順の意を貫き、藩兵が領外で戦闘することを禁止する。 よって戦闘に加わった者は脱藩している。
3月 3日   会津藩兵1千余名が田島陣屋へ布陣。
3月 10日   長沼流兵法から、洋式の新しい軍制に編成する。
4月 10日   会津藩と庄内藩の同盟が締結される。
4月 20日   会津藩が白河城を占領。
 同日、日光/今市で凌霜隊が会津藩兵と合併。
4月 29日   新撰組隊士らが田島陣屋へ入る。
土方歳三ら数名は大内宿を経て、清水屋旅館に到着。
閏4月 5日   日光東照宮の御神体が、会津の東照宮へ移され、8月に山形/立石寺へ。
新撰組に白河への出陣が発令、翌日に斎藤一 (山口二郎) ら130余名が出立し、赤津・御代を経て、同21日に白河到着、同23日から白坂関門に布陣。
閏4月 23日   奥羽の諸藩大名が白石城に集結し、5月3日に奥羽列藩同盟が調印。
閏4月 25日   白河城を攻撃するも、撃退。
しかし、地元/町役人の裏切りにより、5月1日に奪われる。
6月 25日   栃木県藤原町の守備隊/大鳥圭介隊が、を撃退。
7月 7日   大風が空き荒れる。 台風か。
7月 21日   旧幕臣/大鳥圭介隊が、日光口から母成峠に移動する。
7月 27日   新潟港がの手に落ち、輸入した最新式武器や弾薬を満載した輸送船が略奪され、その後の戦闘に多大な影響を及ぼす。
卑劣な三春藩が協定を裏切り、影でに寝返る。
8月 6日   大雨で洪水が発生。
8月 18日   新撰組に二本松口防衛が発令、猪苗代を経て、20日に母成峠/勝岩へ布陣。
8月 21日   敢死隊・二本松兵・猪苗代兵・大鳥圭介が守備する母成で戦いが始まる。
8月 22日   十六橋を破るとの報により、白虎士中二番隊が出陣する。
主力兵は国境防備に派兵されており、城下には、戸の口原 250名・大寺 200人・背炙り口 200人が全兵力であった。
8月 23日   が城下に侵入する。 隠居していた老人たちが奮戦し、鶴ヶ城への侵入は食い止める。 家老/西郷頼母の家族など21人が自刃、その他多くの藩士の婦女子が戦いの足手まといを避けるため自害する。
8月 25日   中野竹子が、柳橋の戦いで薙刀をふるい奮戦するも銃弾に倒れる
勢至堂口の守備隊が鶴ヶ城に帰還する。
8月 26日   卑劣極まりない裏切り/三春藩の道案内で、が小田山に大砲を設置し鶴ヶ城へ砲撃が開始。
8月 29日   佐川官兵衛が率いる1千人が長命寺で戦う。110人の戦死者を出す最大の戦いで、長命寺の戦いと呼ばれる。
8月 30日   坂下の天屋付近で激しい戦闘。
沼山で激しい戦闘。
9月 1日   大内峠で激しい戦闘。
9月 2日   本郷関山で激しい戦闘、4日まで続く。
9月 4日   新撰組の24名が如来堂で奇襲を受け奮戦するも、13名が戦死。
別部隊は山都町で戦闘。
米沢藩が降伏。
9月 5日   美濃/郡上藩からの援軍/凌霜隊が、西出丸から入城。
神指柳原で激しい戦闘。
9月 6日   佐川官兵衛隊が秀長寺近くで、に奇襲をかけ大勝利(秀長寺の戦い)。
戊辰(1868)年
9月 8日   長岡藩/山本帯刀隊は、濃霧のためのど真ん中、生け捕りにされた者も、最後まで武士道に殉じ、散った。
9月 9日   佐川官兵衛の隊が田島陣屋を奪回する。
大鳥隊が小田付 (喜多方市) を出立、大塩・木地小屋を経て会津から退く。
9月 10日   北方山から喜多方に転進し、熊倉に陣を布く。
9月 11日   熊倉での戦いで、を敗走させる。
9月 12日   米沢兵が南下中との報せで、熊倉を撤収する。
昭和の喰丸峠で激しい戦闘。
9月 14日   高田/永井野で激しい戦闘、16日まで続く。
小田山の約50門による砲撃を合図に、の総攻撃が開始。
仙台藩が降伏。
9月 15日   門田/御山や一堰、下雨屋のを、激しく攻撃する。
が多くの戦死者を出して青木へ退くも、会津側も有力幹部を失う。
9月 17日   一ノ堰から撤収し、福原に陣を布く。
9月 18日   佐川官兵衛隊が高田のを激しく攻撃し、山口村を奪回する。
9月 22日   鶴ヶ城、開城 (新暦で11月6日)。
 「薩奸長賊となら まだ十分に戦えるが、天皇へ弓を引くことはできない
呼応して奥羽北越諸藩も降伏。

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