会  津  の  歴  史  年  表

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江戸時代/後半 (会津松平家)

享保16(1731)年
10月 23日   松平容貞公が家督を継ぐ。
享保17(1732)年
4月 22日   柳津村 (柳津町) が火災、焼失46戸。
  この年 川井村 (三島町) で火災、焼失59戸。
      江戸四大飢饉の1つ「享保の大飢饉 (享保17年、西日本一帯)」」
享保18(1733)年
1月 25日   幕府より江戸城の堀さらい手伝い普請を命ぜられる。
資金として4月11日に上方で1万3千両を借り入れる。
7月9日、藩の累積借財が16万8225両に及ぶ。
  この年 滝神社 (只見町) が、洪水の犠牲者慰霊のため創建。
享保19(1734)年
5月 5日   坂下村 (会津坂下町) で大火、焼失276戸。
6月 29日   桂林寺町から出火、焼失24軒。
享保20(1735)年
2月 17日   社倉米の運用17ヶ条を発令する。 天文2(1737)年とも
  この年 愛宕神社 (檜枝岐村) が、創建。
享保21〜元文元(1736)年
4月 17日   柳津村 (柳津町) が火災、焼失72戸。
6月 27日   大風雨、川々洪水、特に只見川が大洪水。
8月 18日   大雨、湯川大川が洪水。
  この年 延命寺 (三島町) が、再建され現在に至る。
元文2(1737)年
2月 28日   赤岩村 (喜多方市) の大松山で山崩れ。
6月 21日   〜22日、大風雨、川々洪水、山崩れで熊野神社 (喜多方市) が壊れる。
元文3(1738)年とも。
9月     程窪村 (西会津町) で山崩れ。 集落の再建は元文4(1739)年。
元文4(1739)年
1月 12日   本一ノ丁から出火、井深三郎左衛門屋敷が焼失。
12月 12日   社倉米が10万俵に達する。
  この年 越後街道の新道/束松峠が開通。
寛保元(1741)年
      安照寺 (南会津町) が、9世/雷音により本堂を建立、現在に至る。
寛保2(1742)年
1月 2日   森雪翁の「会津孝子伝」が死後に刊行。 宝永7(1710)年に著す。
8月 2日   大風雨、川々洪水。
11月     白鳥神社 (下郷町) が、勧請。
  この年 領内の漆樹が180万9726本に達する。
寛保3(1743)年
閏4月     越後国/魚沼郡の3千石余の地が預けられる。
寛保4(1744)年
1月 9日   第5代藩主となる 松平容頌公が生れる。
3月 9日   東六日町から出火、焼失701戸。 焼失628軒とも。
延享元(1744)年
3月     若松で大火災が発生 (焼失700余戸)。
延享2(1745)年
4月 3日   竪三日町で大火災が発生 (焼失28戸)。
4月 9日   城下に定火消が設置される。
4月 19日   津川町が大火。
延享4(1747)年
8月 19日   〜20日、大風雨、洪水。
寛延元(1748)年
1月 14日   坂下村 (会津坂下町) で出火、焼失284余戸。
10月 8日   後の名家老/田中玄宰が生れる。
寛延2(1749)年
4月 1日   小田付村 (喜多方) に馬市が立つ。
7月 9日   土津神社蚕養国神社諏訪神社にて五穀豊穣を祈願。
寛延3(1750)年
6月 1日   霜降る
9月 27日   第4代藩主/ 松平容貞公没 (27歳)

11月 12日   松平容貞公の長男/松平容頌公が家督を継ぐ (7歳)。
12月 24日   農民が、種米の貸し付け返済と、郡代の罷免を求め鶴ヶ城を包囲する。
寛延4〜宝暦元(1751)年
1月     怪星出現し赤雪降る
4月 25月   越後/高田で大地震。
8月 12日   沼尻温泉は会津領と決まる。
寛延2(1749)年から垢採取権で二本松藩と争っていた。
再度の訴訟に幕府は宝暦5(1755)年12月2日に会津領と断ずる。
  この年 中の沢温泉 (猪苗代町) が、湯治場として開湯。
宝暦2(1752)年
1月 12日   郡役所から出火し、割元役所や貸方役所を焼失。
6月 30日   大雨洪水、田畑1,951町歩が冠水。
宝暦3(1753)年
1月 25日   江戸の商人に、借財の整理を依頼する。
宝暦4(1754)年
4月 29日   塩川村の阿弥陀寺から出火し、近辺の焼失100余戸。
  この年 大橋村 (南会津町) で出火、焼失30軒。
      旱魃で農作物大被害、亡村190ヶ村に達する。
宝暦5(1755)年
3月 10日   日光大地震。
5月 21日   南山領・・越後預領が幕府直轄となる (3回目、通知は 6日)。
 代わりに伊達郡・信夫郡・宇多郡・楢葉郡4万7千余石を預かる。
  (翌年には磐城平藩領となる)
12月 2日   沼尻山の領有が再燃し、幕府の裁定で再び会津領が確定。 。
  この年 伊達郡梁川村など27ヶ村が会津藩の預り領に追加される。
宝暦6(1756)年
  この年 預り領の伊達郡梁川村など27ヶ村が、磐城平藩の分領となる。
宝暦7(1757)年
5月 1日   大川湯川が洪水。
5月 25日   北方筋川々洪水
6月 16日   大川、湯川が洪水。
宝暦8(1758)年
6月 24日   〜8月6日、雨が降らず旱魃。
宝暦9(1759)年
1月 10日   大吹雪、大手口の郭門が吹き倒れる。
閏7月 5日   大雨洪水、山崩れ多数。
閏7月 12日   赤井町より出火、焼失137軒。
宝暦10(1760)年
2月 4日   民家からの火事で、箕田藩邸が類焼。
3月 29日   山三郷 (本組・大谷組・吉田組) が大雪・大風。
4月 29日   山三郷 (大谷組) に氷降雨・大風で、田畑の作物被害甚大。
7月 28日   塩の専売制を開始する。
11月 11日   豪雪、各地で家屋が倒潰。
宝暦11(1761)年
3月 28日   常慶寺から出火、焼失56軒。
宝暦12(1762)年
4月 13日   〜15日、地震が続く。
8月 15日   大地震。
宝暦13(1763)年
  疱瘡が大流行。
7月 29日   陸奥・越後・下野三国の内、12万千石が預り領となる。
9月 3日   大風雨、大川筋洪水、堤の決壊12ヶ所、田畑25町歩冠水。
9月 13日   南山領が会津藩預りに戻る。
12月     大暴風、大雪。
宝暦14〜明和元(1764)年
7月 8日   山形城主/松平乗佐の大阪城代の任で、幕府に山形城の在番を拝命。
 9月28日、引き受け。
 明和5(1768)年3月25日、秋元但馬守へ引き渡す。
10月 25日   江戸上屋敷 (和田倉門邸)が火災。
明和2(1765)年
3月 20日   本一ノ丁 (西郷文蔵長屋) から出火し、半兵衛町屋敷までの212軒が焼失。 焼失205軒とも。
明和3(1766)年
6月 27日   〜28日、湯川大洪水。
8月 28日   猪苗代一帯が大風。
  この年 朝鮮人参の種を幕府に請い、日光の今市で栽培に成功していた種を下付。
明和4(1767)年
9月 30日   大地震。
  この年 長福寺 (只見町) の本堂などが改築され、現在に至る。
明和5(1768)年
3月 7日   大川洪水。
4月 6日   預り地/陸奥国福島を収め、越後国/魚沼郡を預かる。
5月     丹藤村 (南会津町) から出火、25戸が焼失。
12月 4日   越後国の預り地にも、90歳以上者および貧民に領内と同じく俸米を与える。
明和6(1769)年
6月 1日   東名子屋町に初めて馬市が立つ。
7月 23日   馬場町より出火、450軒が焼失。 60戸とも。
明和8(1771)年
2月 25日   大風民家を倒す
7月 2日   大旱魃のため、外濠の水を養水とする。
8月 18日   土津神社の百年祭が執り行われる。
明和9〜安永元(1772)年
2月 29日   江戸大火、上屋敷が類焼。
3月 6日   大和町 (利三郎宅) から出火し、焼失76軒。
同月9〜10日、郭内・小田町で出火と火災が続く。
8月 2日   大洪水、高田 (会津美里町) 一帯の田畑600余町が水没。 5日とも。
安永2(1773)年
3月 15日   早稲谷村 (喜多方市) で山崩れ、民家1軒倒壊。
6月 5日   堅三日町 (治右衛門宅) から出火、焼失1,670 戸。 [図]
安永3(1774)年
2月 30日   百姓の民数13万3千余人 (郡奉行の報告)。
安永4(1775)年
8月 15日   大風雨、穀物冠水。
8月 25日   地方給人制を導入し、下級武士を帰農させる。
9月   疱瘡が流行。
安永6(1777)年
1月     大雪、家屋倒壊多し。
6月 23月   大雨洪水。 特に湯川が大洪水。
安永7(1778〜1779)年
11月 20日   第6代藩主となる松平容住公が生れる。
安永8(1779)年
6月 23日   博労町から出火、焼失22軒。
7月 13日   大町四ノ町から出火、焼失12軒。
12月 2日   〜6日、桜島噴火による灰が会津にも降り続く。
安永9(1780年
2月 14日   柳津村 (柳津町) が大火、円蔵寺が焼失。
安永10〜天明元(1781)年
閏5月 17日   大風雨、洪水、山崩れ、民家流失、人馬流死多し。
  この年 田中玄宰が家老となる。 34歳。
天明2(1782)年
5月 11日   西方村 (三島町) から出火、焼失24戸。
6月 24日   川井村 (三島町) で野火が延焼、焼失64戸。
9月 2日   小荒井村 (喜多方市) から出火、焼失136戸。
9月 25日   七日町 (与右衛門宅) から出火、焼失307軒)。
  この年から 江戸四大飢饉の中で最大の「天明の大飢饉 (天明2年〜同8年)」
天明3(1783)年
2月 19日   大地震。
3月 20日   高田村 (会津美里町) から出火、焼失121戸および伊佐須美神社も焼失。
3月 20日   田島村本町 (南会津町) から出火、焼失70戸。
6月 18日   大風雨、洪水 (特に大川筋大洪水)。
6月 28日   夕刻前から29日・7月1日の3日間、浅間山噴火による火山灰が降り注ぐ。
その後も降灰は続き、冷気甚だしく、田畑の大凶作のみならず野原への影響で家畜も餓える。
南山御蔵入領の餓死者が、翌年を含め2,400人を超える。
天明4(1784)年
      夏の間、1滴の雨も降らず、大旱魃。 特に猪苗代一帯・福良組の高冷地では農作物が実らず。
天明5(1785)年
      藩政改革が開始される。
天明6(1786)年
4月 29日   大風雨、樹木の倒壊多し。
7月 16日   大洪水、宮川の堤防が決壊し、民家・田畑が流失、損失15,663石余。
天明7(1787)年
4月 3日   宮下村 (三島町) から出火、焼失12戸。
  この年 藩政改革の大綱が公表される。
磐梯山の小規模/水蒸気噴火が頻発。
天明8(1788)年
2月 25日   伊佐須美神社 (会津美里町)、 磐梯神社 (猪苗代町)、 慶徳村稲荷神社 (喜多方市)で五穀豊穣の祈願を行う。
3月 6日   藩軍制の河陽流を廃し、長沼流/佐枝派の兵法に改める。 1月29日とも。
5月 1日   会津四郡の役所前に目安箱を設置する。
6月 5日   生徒数の増加に伴い西講所を新設し、従来の郭内講所を東講所と改称。
10月 1日、書学寮を建てる。
10月11日、通講所が開所する。
11月25日、武学寮を建てる。
12月15日、町講所2ヶ所できる。
寛政元(1789)年
3月 9日   桑苗の植栽を奨励し、希望者には吟味所で配布。。
3月 16日   楢原村 (下郷町) で出火、焼失60戸。
8月 24日   高領覚太夫慶忠が「会津鑑/66巻」が編纂し、藩に献上する。
寛政2(1790)年
1月     お抱屋敷/深川藩邸が類焼。
2月 27日   大谷・鳥海 (三島町) で出火、焼失16軒。
3月 1日   若松を東西に分け、甲賀町口桂林寺町口に町奉行所を設置。
3月 6日   御薬園にて、最初の籍田の儀式が執り行われる。
3月 6日   大和川酒造酒蔵 (喜多方市) が創業。
寛政3(1791)年
7月 25日   初めて学校奉行を設け、文武を監督させる。
8月     湯川が氾濫する。
10月 7日   七日町に人形座が建つ。
寛政4(1792)年
2月 13日   材木町より出火、焼失17軒。
4月 9日   宮下村 (三島町) で大火。
3月 16日   〜17日、初めての追鳥狩が本郷河原 (会津美里町) で行われる。
8月 2日   下一ノ丁より出火、焼失21軒。
9月 8日   住吉川原に藩の醸造所を建設。
  この年 京都から招いた職人により、金箔・金粉の製造が始まる。
寛政5(1793)年
3月     藤倉村に皆鶴姫の碑が建立。
4月 4日   川島村 (南会津町) から出火、全村が焼失。
4月 10日   半兵衛横丁から出火、焼失23軒。
12月 3日   江戸商人/田畑と三河屋の援助で、江戸/中橋槇町の平兵衛店を借り、「会津藩産物会所」 を設置。
寛政6(1794)年
1月 10日   江戸大火で芝の中屋敷が延焼。 普請費用に苦心する。
3月 23日   小荒井村 (喜多方市) から出火、住家40戸・非住家60棟が焼失。
寛政7(1795)年
3月 15日   二ノ丁/七右衛門座元の芝居座で、興業が認可される。
  この年 鍛冶役場を設け、桂林寺町に地雛役場、七日町に魚鳥役場を設ける。
寛政8(1796)年
1月 1日   猪苗代本町 (猪苗代町) から出火、焼失35戸。
6月 4日   大洪水。 浸水722軒・流失34軒・冠水1,589町歩。
8月 1日   さざえ堂が、飯盛山の中腹に建立され、15日間 開帳する。
寛政9(1797)年
8月 11日   三ノ町の芝居座に次いで、西名子屋町に芝居座が建てられ、初めて江戸の歌歌舞伎役者が興行。
9月 6日   諸川洪水、稲束十万束余流失
11月     大川端御屋敷が類焼。
  この年 伊予大洲藩から2箱分のミツバチを譲り受け、割場で養蜂事業を開始する。
      善龍寺に竜宮城のような山門が建立され、西国三十三観音木造が安置。
寛政10(1798)年
1月 22日   大内村 (下郷町) で出火、焼失13軒。
7月 17日   幕府より越後国/魚沼郡の地5千石余を預かる。
8月 30日   名医/目黒道琢が死去。
寛政11(1799)年
4月 7日   藩校/日新館の建築に着工する。 13日からとも。
寛政12(1800)年
3月 29日   南町の常慶寺町から出火、焼失56軒。
  この年 本郷焼の白磁製法を開発し、その後に大いに栄える。
      琵琶首村 (柳津町) で大火。
寛政13(1801)年
11月 1日   藩校/日新館が開校する。
享和2(1802)年
2月     幕府に請って、特産品/漆器の海外に輸出する道を開く。
6月     伊能忠敬が測量のため、奥州街道から会津を通って出羽・秋田へ向かう。
7月 4日   会津塗朝鮮人参をオランダ人と中国人への貿易開始。
享和3(1803)年
3月     日新館童子訓/全2巻」の編纂が成る。
9月 15日   第7代藩主となる松平容衆公が生れる。
10月 9日   藩校/日新館の全棟が、城の西側に完成し、孔子像を大成殿へ遷座する。
12月 23日   第8代藩主となる松平容敬公が生れる (公式は文化3年)。
  この年 出雲から朝鮮人参の種を大量に仕入れ、会津一円に作付する。
文化2(1805)年
1月 19日   藩士の全家庭へ「幼年者心得之廉書/十七ヶ条」が配布される。
2月 11日   先封の蘆名蒲生加藤3氏の墓地・霊牌に香典、功士の墓に掃除料を供す。
5月 6日   中六日町から出火、焼失129軒。 49軒とも。
6月     熱塩村 (喜多方市) で出火、焼失18戸。
7月 22日   藩校/日新館で、日本初の学校給食が開始される。
7月 29日   第5代藩主/松平容頌公没 (62歳)
  この年 願入寺 (喜多方市) が再建され現在に至る。
      大光寺 (喜多方市) が、越後の僧/安翁により現在の本堂を再建し中興。

閏8月 19日   従兄弟の子/松平容住公が家督を継ぐ。
 同年10月5日に産子養育料/1千5百料が下附される。
12月 27日   第6代藩主/松平容住公が没 (28歳)

文化3(1806)年
2月 14日   松平容衆公が家督を継ぐ (4歳)。
4月 28日   第8代藩主となる松平容敬公の公式としての誕生日。
  この年 長野村 (只見町) で出火、焼失80戸。
文化4(1807)年
6月 1日   家老/田中玄宰が願い出ていた蝦夷地への出兵が認められる。
 6月、幕臣/堀田摂津守の蝦夷地調査に、藩士/野村忠次郎を同行させる。
11月1日、幕府より会津藩・仙台藩の両藩に出兵の命が下る。
出兵は、翌年1月9日から開始
文化5(1808)年
1月 9日   北方警備の第1陣が鶴ヶ城を出発、計4班 (計1,633名) に別れて向かう。
樺太 (745名)、宗谷 (370名)、利尻島 (252名)、松前 (266名)が警備に着く。
4月 19日   樺太詰隊が樺太久春古丹に到着し、仮小屋を建てる。
8月 7日   名家老/田中玄宰が、自らが命じた北方警備の最中に没 (61歳)
9月 16日   〜12月28日、北方警備から若松へ帰還。
文化6(1809)年
4月 7日   編纂した「新編会津風土記/全120巻」が完成。
4月 16日   松平容衆公が、「新編会津風土記/全120巻」を幕府に献上する。
江戸時代における地誌の代表とされ、編纂のモデル的役割を果たしており、将軍から編纂に携わった者に白銀が贈られた
文化7(1810)年
2月 26日   幕府から、異国船防御の砲台を相模や安房の両国沿岸に構築するよう白河藩と共に命令じられ、翌年5月13日から相模国 (三浦、鎌倉、久良岐3郡3万石余) が会津藩領となる。
7月     相模国/観音崎と三崎に砲台を築く (落成は翌々年)。
11月     観音崎と三崎に守備兵の陣営を設置する。
文化8(1811)年
5月 13日   魚沼・浦原二郡に代わり、相模国三浦・鎌倉二郡の内/3万石を預かる。
  この年 相模国の三崎と鴨居の陣屋や、平根山・城ケ島の台場に多くの家族も同行したので、藩校「養正館」 も開校した。
文化9(1812)年
      相模国/観音崎の台場が竣工。
文化10(1813)年
4月 13日   耶麻郡甲石村で出火、全戸焼失。
5月 11日   大雪で季節外れの積雪。
  この年 日中温泉 (喜多方市) が開湯。
日中ダムの建設で沈み、現在の温泉は平成5(1993)年に掘り当てた源泉。
文化11(1814)年
7月 11日   医学館「十全館」を設立。
  この年 「仕置類奇/300巻」の編纂が成る。
藩絵師/田村観瀾の「和漢古図写帳」が成る。
文化12(1815)年
7月 16日   「家世実紀/277巻」の編纂が成り、幕府に献ずる。
文化13(1816)年
1月 11日   外国船が下田港に入ったため、観音崎と三崎の兵を出動させ備える。
文化14(1817)年
8月     大野原の練兵場が成る。
9月     外国船が安房の海上に現れ、藩兵が戒厳体制を敷く。
  この年 西隆寺 (三島町) の本堂が再建され、現在に至る。
      「法度書/4巻」が編纂。
文政元(1818)年
5月 13日   夜陰の濃霧の中、イギリス船 (ゴードン船長以下9名) が洲ノ崎備場を通り抜け大騒ぎ、会津藩も番船を出し取り囲む。 [図]
6月 24日   柳津村 (柳津町) から出火、106戸全勝。/td>
7月 3日   北小路から出火、東からの強風で風下の町が全焼。/td>
文政2(1819)年
      松平容敬公が、火災により焼失した蚕養国神社の社殿一切を再建。
文政3(1820)年
6月 5日   大暴風雨、只見川が洪水し山崩れ多し。特に大谷川 (三島町) が大洪水。
大谷村が全村水没、田畑/間方村の9割・浅岐村の6割。
6月 20日   大雨、高田村 (会津美里町) 一帯が洪水。
12月 28日   相模国の沿海警備が免除となり、浦賀奉行/内藤正弘に引き継ぐ。
相模国領を収め、陸奥国・越後国の旧領を復する。
文政4(1821)年
11月 19日   大沼郡大石組で、沼沢沼岩底の断層による岩代大地震 (大石組地震とも)。
12月12日まで断続的に続く。 全壊家屋130戸、半壊300余戸。
翌年1月5日に再び強震が襲ったため、全村民が移住。
文政5(1822)年
1月 5日   地震ひ且鳴ること甚だしく三日三晩を連ぬ 家屋多く倒る死傷も亦多し
2月 29日   第7代藩主/松平容衆公没 (20歳)

文政5(1822)年
4月 21日   養子の松平容敬公が家督を継ぐ。
6月     領内産の馬を幕府に献上。 以降、5年ごとに献上。
7月 4日   四ツ谷村 (会津美里町) で子供の火遊びによる失火、焼失54戸。
  この年から 檜枝岐歌舞伎 (檜枝岐村) が始まる。
文政6(1823)年
3月     吉村寛泰「日新館志/30巻」を著す。
9月 4月   幕府から信夫郡笹生村など1万石余を預かる。
10月     領内の子3人を生んだ農民を賞して籾50俵を与える。
12月 14月   陸奥国3千石余の預地を収め、越後国6千石余を預かる。
文政7(1824)年
10月 6月   大暴風、洪水。
文政8(1825)年
5月 16月   西谷村 (金山町) で出火、焼失54戸。
文政9(1826)年
3月 23月   野沢村 (西会津町) で出火、社寺を残し全村焼失。
 後に、「忠之丞大火」と称す。
5月 7月   松平容敬公塩川の御殿場で初の鷹狩りを行う。
文政11(1828)年
4月 3日   老町から出火、東風強く風下の950軒余が焼失。
5月 29日   信夫郡預地の内3千石余を収め、越後国/蒲原郡の3千石余を預かる。
9月 18日   大河原臣教「千歳の松」全4巻が編纂。
10月 29日   蒲原郡の内3千6百石余を収め、越後国/魚沼郡の3千9百石余を預かる。
文政12(1829)年
2月 15日   日本のナイチンゲールといわれる、瓜生岩子北方で生れる。
8月     会津人参 (朝鮮人参) が増産できたため、大阪俵物役所から清国に輸出できるよう幕府に申請。
8月 13日   大暴雨、洪水
8月 13日   倉村 (下郷町) から出火、焼失19戸。
文政13〜天保元(1830)年
3月 24日   家老となる西郷頼母が生れる。
5月 11日   大雨、大塩村 (北塩原村)・姥堂村 (喜多方市) に洪水被害が甚大。
5月 27日   大雨洪水、熱塩村 (喜多方市) で山崩れ多数。
  この年 圓蔵寺 (柳津町) の菊光堂 (本堂) が建立。
      上野尻村 (西会津町) から出火、焼失24棟。
天保2(1831)年
7月 13日   上野尻村 (西会津町) から出火、全村焼失。
天保3(1832)年
8月 12日   朝鮮人参 (会津人参) を長崎から輸出。
天保4(1833)年
4月 7日   越後国/魚沼郡の3千石余を収め、安積郡の4千石余の地を預かる。
  (安積5郷/船津・安佐野・舘・横沢・浜治)
 夏 〜秋 冷気甚だしく、米穀実らず。
藩は社倉米の放出など救済に尽力し、1人の餓死者も出さず。
江戸四大飢饉の1つ「天保の大飢饉 (天保4年〜同10年)」
   (天保4年〜同7年の説も)
8月 17日   越後国/魚沼郡の2百石余の地を預かる。
12月 28日   越後国/魚沼郡の3百石余の地を預かる。
12月     会津藩「諸士系譜」全360巻が完成。
天保5(1834)年
4月 18日   越後国/魚沼郡の3百石余の地を収める。
5月 22日   老町から出火、東風強く風下の1,000余戸が残らず焼失。
  (焼失460軒とも。 3月23日とも。)
天保6(1835)年
6月 25日   陸奥・関東大地震
7月 1日   田島の馬市が再開。
9月 28日   台風による強風・水害を被る。
  この年 収穀22万9千俵が減る。
天保7(1836)年
1月     五十里から川治村を経て今市に至る南町通りの新道が成る。
1月     岩瀬郡釜子陣屋下の農民が会津に移住したいと願い出る。 諭して返す。
6月     気候不順に付き、ソバ雑穀の植栽を推奨する。
12月 10日   会津郡・大沼郡の内5万5千石の預地を収める。
  この年 収穀27万2千俵が減る。
天保8(1837)年
2月 28日   南山領が幕府直轄となる (4回目、通知は 8日)。
4月 17日   横三日町で大火災が発生 (焼失110戸)。
天保9(1838)年
3月 15日   幕府に金3万両を献じ、江戸城/西丸の造営を助ける。
6月 16日   熱塩村 (喜多方市) で出火、示現寺を除き全村が焼失。
天保10(1839)年
6月 21日   大塩村 (金山町) の渡し舟が転覆し、死者20名。
12月 6日   江戸城/西丸の造営の謝意に、幕府から時服30領 (衣服30着) を賜う。
  この年 町野源之助 (主水)が、父/町野閑栄・母/きとの子として誕生。
天保11(1840)年
2月 21日   江戸城/西丸の造営の謝意に、幕府から家臣10人に白銀などを賜う。
8月 26日   檜枝岐村で出火、焼失55戸。
  この年 本名村 (金山町) で出火、焼失12戸。
天保12(1841)年
2月 24日   〜25日、馬場一之町 (江戸屋善七) から出火、強風のため焼失839軒。
     風下が1千余戸全焼とも。
3月 15日   山崎村 (喜多方市) から出火、焼失30戸。
天保13(1842)年
3月 4日   塩川村新丁 (喜多方市) から出火、焼失73戸。
4月 14日   熱塩村 (喜多方市) から出火、焼失73戸。
9月     江戸藩邸に学校奉行添役熱を新設、文武の芸を奨励する。
  この年 「四書訓蒙輯疏/29巻」が編纂。
      澤田名垂「家屋雑考」を著す。
天保14(1843)年
5月     山本佐平良高(山本覚馬新島八重の祖父)が初めて西洋型臼砲を製造。
5月     日新館の北門東に開版所 (印刷所) が新設され、「童子訓」などを出版。
12月     社倉米が25万俵に達する。
弘化元(1844)年
2月 2日   〜3日、大暴風。
      光明寺 (喜多方市) が現在地に再建。
弘化2(1845)年
7月 20日   上野尻村 (西会津町) で出火、焼失37棟。
11月 3日   山本八重が、父/山本権八・母/さくの子として誕生
    瓜生岩子が、佐瀬茂助と結婚 (17歳)。
  この年 高田村から出火し、上町・中町・下町など焼失270戸、法幢寺天王寺・心光寺も類焼。
弘化3(1846)年
11月 16日   南山領が会津藩預りに戻る。
弘化4(1847)年
2月 15日   度重なる出兵に不服を伝え辞退するが、前例を持ち出され、安房と上総の二国の湾岸警備を強硬に命じられる。
4月     幕命により房総海岸の警備の任に就く。
6月     安房国平郡と、上総国周淮郡・天羽郡の一部が会津領となる (耶麻郡小沼と熊倉組の一部との交換)。
6月     牛沢村 (会津美里町) の大徳寺より出火、焼失13戸。
8月 15日   竹岡を忍藩から引き継ぐ。
8月 16日   富津を忍藩から引き継ぐ。
嘉永元(1848)年
2月     松平容敬公が、湾岸警備地の富津陣屋と竹岡陣屋を視察する。
4月 16月   宮在家村 (喜多方市) から出火し、焼失31戸。
嘉永2(1849)年
5月 5日   松平容敬公が、外国船打払い令の復活は不可と幕府へ上申し、江戸湾防備のため「御台場 (砲台)」設置の具体案を提出する。
10 16日   安部井帽山撰の「四書訓蒙輯疏/29巻」を将軍に献上。
嘉永3(1850)年
8月 30日   猪苗代新町 (猪苗代町) から出火、焼失70戸。
12月     松平容敬公が、三忠碑 (猪苗代町) を建立。
  この年 中野竹子が、江戸常詰勘定役/中野平内の長女として江戸で生まる。
嘉永4(1851)年
6月 1日   江川英龍に依頼した大砲「ヘキサンス」 が完成し、安房の砲台に設置する。
12月 27日   幕府は、松平容敬公と佐賀藩主/鍋島斉正の治績を賞する。
  この年 房総1万5千石の村々と会津領内の村々が村替えとなり、後に房総の9千石が加増。
嘉永5(1852)年
2月 10日   第8代藩主/松平容敬公没 (47歳)

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