戊  辰  の  役  /  殉  難  者

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新 撰 組 と の 関 わ り

   多摩の郷士/近藤勇や、農民/土方歳三たち「浪士組」は、当時の軟弱な武士ではなく、士道に生きる“真の武士”として 「尽忠報国の誠」 の信念を果たすことであった。
 いかなる諸事情があろうと「徳川家への忠誠」「忠義」を尽くす会津藩と宿命的に出会う。
 会津藩の「忠誠」は、彼らが理想とした士道「忠義」であった。
 そして、歴史的必然性として「新選組」が誕生する。
 戊辰の役が勃発し、敗戦に継ぐ敗戦ながらも、会津の精神を目指す友として士道に殉じ「忠義」を貫き、最後まで過酷な運命を共に歩む。
 史上最強の剣客集団も、武士の時代とともに終焉を迎える。
 しかし、決して歴史は、時代の若き風雲児たちを見捨てていない。
 今後も未来永劫、多くの人々に感銘を与え続けることであろう。

<「新選組の足跡を辿る」については、こちら。>

<不詳・不明な点あり>    .

文久2(1862)年

 公武合体策を実現するため、翌年3月に将軍/徳川家茂の上洛を予定していた。
 京都市中は、尊王攘夷を詐称する暴徒らが跳梁跋扈し、治安が非常に乱れていた。
 幕府は、京都守護職を新設し、任せられる強力な藩を模索する。
 会津藩に白羽の矢が立ち、その任務を脅迫的に迫り続け、強引に命じた。
 さらに、清河八郎による献策を受け、治安回復の一翼を担わせようと警護の名目に、尽忠報国の士であれば身分年齢を問わないとし、浪士の募集に踏み切った。
 清河八郎が攘夷倒幕派であり、そのの策略だったとは、夢にも思わなかったのである。

文久3(1863)年

 2月 4日、幕府の募集に応じた浪士たち300人ほどが、小石川/伝通院に集まった。
 道中心得や、組織編成などの説明を受ける。
 近藤勇も、試衛館の門弟を引き連れ、参加した。
 予定より多い参加者数のため、禄位が減ると告げられるや、一部の者は去った。

 2月 8日、「浪士組 (240名余)」が将軍上洛に先がけて江戸/伝通院から出立。
 中山道を通って京都へ向かう。
 
《宿泊》 8日、蕨   9日、鴻巣  10日、本庄  11日、松井田
    12日、追分 13日、長窪  14日、下諏訪 15日、奈良井
    16日、須原 17日、中津川 18日、伏見  19日、加納
    20日、柏原 21日、武佐  22日、大津  23日、壬生村に分宿

 2月23日、京都に到着。
 
《浪士取締役》鵜殿鳩翁  窪田鎮勝  佐々木只三郎  中條金之助        松岡萬   松平忠敏  山岡鉄舟 など

 2月29日、清河八郎が勤王勢力と通じており、浪士組を将軍警護ではなく、天皇配下の軍兵にしようとする策略が発覚する。
 浪士取締役の協議の結果、浪士組を江戸に戻すことを決定する。
 これに対し、芹沢鴨近藤勇らは脱退して京都残留を主張し、京都/壬生村に残る。
 江戸に戻った浪士は、「新徴組」と改称され庄内藩預かりとなる。

 3月10日、芹沢鴨・近藤勇たち残留を望む浪士17名が、見廻組/佐々木唯三郎 (只三郎) の執り成しで、容保宛の嘆願書を提出する。

 3月13日、前日の会津藩/野村左兵衛の進言により、残留組24名が京都守護職の藩主/松平容保の庇護 (会津藩預かり) となる。

 3月15日、新たに加わった36名で、「壬生浪士組 (精忠浪士組)」 が結成。
 「()忠浪士組」の名称は、隊旗「誠」から後世に創作されたものとされる。
 
《「壬生浪士組」結成時》
   隊 長:芹沢鴨  近藤勇
   副 長:新見錦  山南敬助 土方歳三
   組 頭:原田左之助 斎藤一 永倉新八 藤堂平助 平山五郎
        沖田総司 野口健司 井上源三郎
   勘定方:平間重助
 その後、体制作りが進められ、隊士/200名を超える。
 後年、日野市観光協会は、3月13日を「新選組の日」と制定した。

 3月16日、近藤勇たち残留浪士組が、京都守護職邸で容保にに拝謁する。

 4月13日、江戸に戻った清河八郎は、幕府の命を受けた刺客/佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって、麻布赤羽橋(東京/麻布十番)で暗殺される。

 4月16日、容保の御前で武術を披露する。

 8月18日、「八月十八日の政変」で蛤御門の警備のため隊士52人が出動。

10月、「八月十八日の政変」の功績により、会津藩から「新選組」の名を賜り、不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。
 10月付の容保が「新選組」を名乗るように指令を出した史料が現存している。
 会津藩には、幕末以前に「諸芸秀俊の子弟」で構成され、本陣を守る「新撰組」があった。
 「新撰組」「新選組」の表記は、局長/近藤勇や隊士たちの手紙で両方が用いられている。
 
《京の治安を守る組織》
  ◇ 京都見廻組  幕臣(旗本、御家人)で構成される正規組織
  ◇ 新選組    農民・町人出身の浪士で構成される非正規組織
           (会津藩預かり)
 10月15日、新選組から録位辞退の上書が、公用方に提出された。

元治元(1864)年

 6月 5日、池田屋事件により京中に名が知られ、住民から喝采を浴びる。
 壬生村の屯所に帰還する沿道は、野次馬で あふれていたという。
 奥沢栄輔が戦死し、安藤早太郎新田革左衛門が負傷して1ヶ月後に死去。
 会津藩士の応援は戦闘後であった。
 翌朝からの市中掃討で残党20名余が捕縛されたが、会津藩は5名・彦根藩は4名・桑名藩は2名の犠牲者を出している。

 6月10日、池田屋事件の残党を捕縛 (明保野亭事件)。

 7月19日禁門の変が勃発したため、九条河原へ出陣して鎮圧に参加する。

 8月頃、近藤勇に不満を持った永倉新八・原田左之助・島田魁尾関雅次郎葛山武八郎・斎藤一が容保に「非行五ヶ条」を提出。

 9月、隊士募集のため、土方歳三、斎藤一、伊藤鐵五郎、藤堂平助などの幹部が江戸の剣術道場などを訪問。
 翌年、新規の浪士32名を率い京都に戻る。

元治2〜慶応元(1865)年

 3月10日、200名ほどに増強されたため、壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。
 指揮命令を明確にするため小隊制を改組し、「軍中法度」を制定した。
 
《小隊制を改組》 一番隊組長  沖田総司
         二番隊組長  永倉新八   → 伊東甲子太郎
         三番隊組長  斎藤一
         四番隊組長  松原忠司
         五番隊組長  武田観柳斎   → 尾形俊太郎
         六番隊組長  井上源三郎
         七番隊組長  谷三十郎
         八番隊組長  藤堂平助
         九番隊組長  鈴木三樹三郎
         十番隊組長  原田左之助

 特に注力したのは、烏合の衆である浪人集団を統率するための「局中法度 (禁令)」は厳格に実行され、違反者は全員が粛清された。
 「局中法度 (禁令)」は、会津藩の「軍令十四条、軍禁十五条」など4条の法令を模範にして作成されている。
 
《局中法度 (禁令)》
  一、士道ニ背キ間敷事  (武士道に背く行為をしてはならぬ)
  一、局ヲ脱スルヲ不許  (新撰組からの脱退は許されぬ)
  一、勝手ニ金策致不可  (無断で借金をしてはならぬ)
  一、勝手ニ訴訟取扱不可 (無断で訴訟に関係してはならぬ)
  一、私ノ闘争ヲ不許   (個人的な争いをしてはならぬ)
  右条々相背候者切腹申付ベク候也
           (以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡す)
 新選組の使命は、要人警護や京都の治安を守るの警察活動が任務であり、敵を無闇に殺さないで「捕縛を前提」としていたことが、ほとんど知られていない。
 鳥羽伏見の戦い前の5年間での新選組の死者は45名だが、倒幕士との争いによる死者数は6名しかおらず、ほとんど「局中法度 (禁令)」違反による切腹や粛清によるものである。
 規律を厳しく統制していたのであって、巷間の捏造された 「人斬り集団」 のイメージとは全く違ったものである。
 池田屋事件においても、最初は敵の人数が上回ったため切り込んだが、土方隊が到着すると捕縛に変えている。
 事件後、近藤勇は、
    「討取七人 疵為負候者四人 召捕二十三人
      (討取り7人、手傷を負わせる者4人 捕縛者23人)
と報告しており、捕縛の任務を遂行しているのである。
 略奪や殺戮を何とも思わず良心の欠片すら無い長賊らが、明治に入ってから流布した事実に反する虚報であって、太平洋戦争後から徐々に真実が明らかになり名誉も回復され、今や新選組が大好きな“歴女”も急増している。

慶応2(1866)年

 6月 1日、近藤勇らが黒谷本陣へ、容保の病気見舞いに赴く。

 7月20日、※ 将軍/徳川家茂が死去。

12月25日、※ 孝明天皇が崩御。 《Wikipedia》

慶応3(1867)年

 6月10日、新選組が幕臣に取り立てられる。
 
《幕臣取立時》局 長 :近藤勇
       副 長 :土方歳三
       参 謀 :伊東甲子太郎
       副長助勤:沖田総司 永倉新八 井上源三郎 原田左之助
        (組頭)  山崎丞  尾形俊太郎
       諸士調役:吉村貫一郎   大石鍬次郎  安富才助
        兼監察  岸島芳太郎  安藤勇次郎  茨木同
              村上清
  谷(近藤)周平
       平隊士 :大谷勇雄 以下65名
       仮同志 :白原七郎右衛門 以下12名

 6月15日不動堂村へ屯所を移す。

10月14日、※ 大政奉還。

12月 9日、※ 王政復古の大号令。 京都守護職・京都所司代が廃止。
 新選組は、二条城へ警護に入る。

12月11日、さらに旧/幕府軍と共に、一旦、大坂城に赴く。

12月13日、伏見方面の治安警備が必須との会津藩からの提言により、伏見まで引き返し伏見奉行所での警護 (会津藩 200余名・幕府歩兵部隊 500余名) に加わる。
 京都の拠点が無くなった徳川側としては、伏見が戦略上から前線拠点の確保という重要な意味を持っていた。

12月19日、打ち合わせで二条城に出向いた局長/近藤勇が、伏見奉行所へ帰る途中、墨染あたりで銃撃されて重傷を負う。
 その後は、副長/土方歳三が新撰組の指揮を執ることになる。

慶応4(1868)年

 1月 3〜5日鳥羽伏見の戦いが勃発。
 懸念したとおり、新選組も伏見奉行所の周辺で戦うことになる。

 1月 6日、敵に勝る最新鋭の兵器を装備の旧/幕府兵を捨て置き、徳川慶喜は敵前逃亡、近藤勇たちも止む無く江戸に帰還。

 2月12日〜25日、近藤勇に、上野寛永寺で謹慎中の慶喜警護が下命される。

 3月 6日、「甲陽鎮撫隊」と改称し、甲州勝沼で戦う。
 負傷した斎藤一は、手負い隊士たちと江戸から船で会津へ向かう。

 3月12日、永倉新八・原田左之助らが離隊して、靖兵隊を結成。

 4月 2日、下総流山に陣を敷く。

 4月 3日、流山の陣が西軍に包囲され、近藤勇が出頭する。

 4月 4日、土方歳三が勝海舟と面談し、近藤勇の助命を嘆願する。

 4月11日、江戸城が戦わずして開城されたため、土方歳三・島田魁たちは江戸を脱し。国府台の旧幕府軍に合流する。

 4月19日、宇都宮城の戦い。

 4月23日、宇都宮城の攻防戦で土方歳三が被弾、戦線離脱し会津へ向かう。

 4月25日、近藤勇、板橋刑場で処刑される。

 会津へ向かう京都以来の隊士は、40余名に減っていた。
 しかし、道中での新規参加者で、130余名までに増えていく。

 4月29日、新撰組隊士たちが田島陣屋へ入る。
 別行動をとっていた土方歳三ら数名は、大内宿を経て、清水屋旅館に到着。

閏4月 5日、藩から新撰組に軍資金が支給され、白河への出陣が発令。
 翌日に斎藤一 (山口二郎) ら130余名が出立し、赤津・御代を経て白河へ向かう。
 同21日、白河に到着し、白河城へ入る。
 同23日から白坂関門・城外南方の最前線に位置する白坂口付近に布陣。
 
 斎藤一が、負傷した土方歳三に代わって隊長を務める。
 京都で創設以来の副長助勤は、三番隊組長の斎藤一のみになっていた。
   副長 :安富才助。
   軍目付:島田魁、久米部正親

閏4月25日白河口の戦い。 激戦の末、敵兵を退けるが菊池央横山鍋二郎が戦死。
 処刑された近藤勇の墓を、次月の命日に墓を建立 (天寧寺)し、法名を贈る。

閏4月26日、白河口総督として家老/西郷頼母と副総督/横山主税が白河城に入る。
 前日の情勢から斎藤一と純義隊の軍目付/宮川六郎は白坂口の防衛を建言したが、戦略・戦術共に疎い西郷頼母は、「兵力で勝っており、不要」として却下してしまう。
 横山主税の執り成しで、新選組と純義隊は白坂口に布陣し本陣の守備に就く。

 5月 1日 、再戦が始まるも戦いに無能な西郷頼母のもと大敗、白河城は敵兵に落ちる。
 伊藤鐵五郎が戦死し、勢至堂宿までの退却を余儀なくされる。
 その後も、白河城の奪還戦に幾度となく参加するが、成すことはできなかった。

 5月15日 、※ 諸事情で江戸に戻っていた原田左之助が、上野戦争で彰義隊に加わり負傷し、17日に本所の旗本/神保屋敷で死去。

 5月30日、※ 沖田総司、肺結核により江戸で死去

 6月初め福良本陣へ陣を移す。

 6月 9日、藩主/松平喜徳公が、島田魁たち新選組の負傷者の病院としていた千手院を訪れ、見舞っている。。

 8月18日、新撰組に、二本松口防衛が発令。
 猪苗代を経て、同20日に母成峠/勝岩 (中軍山の第二台場) へ布陣。
 怪我が治癒した土方歳三は旧幕府軍の参謀として戦線復帰し、新選組の組長は引き続き斎藤一が務める。

 8月21日母成峠の戦い
 始まりは東軍8百名・西軍3千名で激突、やがて西軍は増援され7千名との戦いとなる。
 東軍の戦死者は104名 (名が判明は74名) とされ、新選組隊士は6名が戦死

 8月23日、鶴ヶ城下に西軍が侵入、修羅場と化す。
 土方歳三は、兄/容保の意を受け、会庄同盟の庄内藩に援軍要請に向かう桑名藩主/松平定敬に同行し会津を出る。 その後、土方は蝦夷へ向かう。

 8月24日、山口二郎(斎藤一)、池田七三郎ら13人が会津に残留を決める。

 9月 2日陣ケ峯の戦い。  斉藤一率いる新選組は、町野主水率いる朱雀士中四番隊大鳥圭介率いる伝習隊・長岡藩兵の援軍と合流して、西軍と激しい戦いを繰り広げた。

 9月 4日如来堂の戦い。 隊士13名・夫卒5名が戦死。

 9月 8日、※ 明治に改元される。

 9月17日、桑名藩の17名が新選組に参加する。

 9月22日鶴ヶ城が開城し、会津での戦いが終結。

明治元(1868)年

10月26日、 旧幕府軍、箱館/五稜郭を占拠へ入城する。

11月 5日、土方歳三軍が松前城を攻略。

12月15日、土方歳三が陸軍奉行並及び箱館市中取締役に選任。

明治2(1867)年

 3月25日、宮古湾開戦。

 4月13日〜29日、二股口攻防戦。

 5月11日一本木関門付近で土方歳三が戦死。

 5月14日 相馬主計が新選組局長に就任。

 5月15日、弁天台場の新選組、食料や水も尽き降伏する。

 5月18日、旧幕府軍降伏し、戊辰の役が終わり、新選組は消滅した。

 
 は、戦死者の埋葬を禁止しただけでなく、新選組/隊士の遺族たちに遺品類の所有を厳しく禁じた。
 そのため、新選組の会則、軍旗、服装の推移など、ほとんどが詳細不祥になってしまった。
ツールチップあり .
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