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多摩の郷士/近藤勇や、農民/土方歳三たち「浪士組」は、当時の軟弱な武士ではなく、士道に生きる“真の武士”として 「尽忠報国の誠」 の信念を果たすことであった。 いかなる諸事情があろうと「徳川家への忠誠」「忠義」を尽くす会津藩と宿命的に出会う。 会津藩の「忠誠」は、彼らが理想とした士道「忠義」であった。 そして、歴史的必然性として「新選組」が誕生する。 戊辰の役が勃発し、敗戦に継ぐ敗戦ながらも、会津の精神を目指す友として士道に殉じ「忠義」を貫き、最後まで過酷な運命を共に歩む。 史上最強の剣客集団も、武士の時代とともに終焉を迎える。 しかし、決して歴史は、時代の若き風雲児たちを見捨てていない。 今後も未来永劫、多くの人々に感銘を与え続けることであろう。 |
公武合体策を実現するため、翌年3月に将軍/徳川家茂の上洛を予定していた。
京都市中は、尊王攘夷を詐称する暴徒らが跳梁跋扈し、治安が非常に乱れていた。
幕府は、京都守護職を新設し、任せられる強力な藩を模索する。
会津藩に白羽の矢が立ち、その任務を脅迫的に迫り続け、強引に命じた。
さらに、清河八郎による献策を受け、治安回復の一翼を担わせようと警護の名目に、尽忠報国の士であれば身分年齢を問わないとし、浪士の募集に踏み切った。
清河八郎が攘夷倒幕派であり、そのの策略だったとは、夢にも思わなかったのである。
2月 4日、幕府の募集に応じた浪士たち300人ほどが、小石川/伝通院に集まった。
道中心得や、組織編成などの説明を受ける。
近藤勇も、試衛館の門弟を引き連れ、参加した。
予定より多い参加者数のため、禄位が減ると告げられるや、一部の者は去った。
2月 8日、「浪士組 (240名余)」が将軍上洛に先がけて江戸/伝通院から出立。
中山道を通って京都へ向かう。
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《宿泊》 8日、蕨 9日、鴻巣 10日、本庄 11日、松井田
12日、追分 13日、長窪 14日、下諏訪 15日、奈良井 16日、須原 17日、中津川 18日、伏見 19日、加納 20日、柏原 21日、武佐 22日、大津 23日、壬生村に分宿 |
2月23日、京都に到着。
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《浪士取締役》鵜殿鳩翁
窪田鎮勝 佐々木只三郎
中條金之助
松岡萬
松平忠敏
山岡鉄舟 など
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2月29日、清河八郎が勤王勢力と通じており、浪士組を将軍警護ではなく、天皇配下の軍兵にしようとする策略が発覚する。
浪士取締役の協議の結果、浪士組を江戸に戻すことを決定する。
これに対し、芹沢鴨や近藤勇らは脱退して京都残留を主張し、京都/壬生村に残る。
江戸に戻った浪士は、「新徴組」と改称され庄内藩預かりとなる。
3月10日、芹沢鴨・近藤勇たち残留を望む浪士17名が、見廻組/佐々木唯三郎 (只三郎) の執り成しで、容保宛の嘆願書を提出する。
3月13日、前日の会津藩/野村左兵衛の進言により、残留組24名が京都守護職の藩主/松平容保の庇護 (会津藩預かり) となる。
3月15日、新たに加わった36名で、「壬生浪士組 (精忠浪士組)」 が結成。
「誠忠浪士組」の名称は、隊旗「誠」から後世に創作されたものとされる。
3月16日、近藤勇たち残留浪士組が、京都守護職邸で容保にに拝謁する。
4月13日、江戸に戻った清河八郎は、幕府の命を受けた刺客/佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって、麻布赤羽橋(東京/麻布十番)で暗殺される。
4月16日、容保の御前で武術を披露する。
8月18日、「八月十八日の政変」で蛤御門の警備のため隊士52人が出動。
10月、「八月十八日の政変」の功績により、会津藩から「新選組」の名を賜り、不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。
10月付の容保が「新選組」を名乗るように指令を出した史料が現存している。
会津藩には、幕末以前に「諸芸秀俊の子弟」で構成され、本陣を守る「新撰組」があった。
「新撰組」「新選組」の表記は、局長/近藤勇や隊士たちの手紙で両方が用いられている。
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《京の治安を守る組織》
◇ 京都見廻組 幕臣(旗本、御家人)で構成される正規組織 ◇ 新選組 農民・町人出身の浪士で構成される非正規組織 (会津藩預かり) |
6月 5日、池田屋事件により京中に名が知られ、住民から喝采を浴びる。
壬生村の屯所に帰還する沿道は、野次馬で あふれていたという。
奥沢栄輔が戦死し、安藤早太郎・新田革左衛門が負傷して1ヶ月後に死去。
会津藩士の応援は戦闘後であった。
翌朝からの市中掃討で残党20名余が捕縛されたが、会津藩は5名・彦根藩は4名・桑名藩は2名の犠牲者を出している。
6月10日、池田屋事件の残党を捕縛 (明保野亭事件)。
7月19日、禁門の変が勃発したため、九条河原へ出陣して鎮圧に参加する。
8月頃、近藤勇に不満を持った永倉新八・原田左之助・島田魁・尾関雅次郎・葛山武八郎・斎藤一が容保に「非行五ヶ条」を提出。
9月、隊士募集のため、土方歳三、斎藤一、伊藤鐵五郎、藤堂平助などの幹部が江戸の剣術道場などを訪問。
翌年、新規の浪士32名を率い京都に戻る。
3月10日、200名ほどに増強されたため、壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。
指揮命令を明確にするため小隊制を改組し、「軍中法度」を制定した。
特に注力したのは、烏合の衆である浪人集団を統率するための「局中法度 (禁令)」は厳格に実行され、違反者は全員が粛清された。
「局中法度 (禁令)」は、会津藩の「軍令十四条、軍禁十五条」など4条の法令を模範にして作成されている。
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《局中法度 (禁令)》
一、士道ニ背キ間敷事 (武士道に背く行為をしてはならぬ) 一、局ヲ脱スルヲ不許 (新撰組からの脱退は許されぬ) 一、勝手ニ金策致不可 (無断で借金をしてはならぬ) 一、勝手ニ訴訟取扱不可 (無断で訴訟に関係してはならぬ) 一、私ノ闘争ヲ不許 (個人的な争いをしてはならぬ) 右条々相背候者切腹申付ベク候也 (以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡す) |
6月 1日、近藤勇らが黒谷本陣へ、容保の病気見舞いに赴く。
7月20日、※ 将軍/徳川家茂が死去。
12月25日、※ 孝明天皇が崩御。 《Wikipedia》
6月10日、新選組が幕臣に取り立てられる。
6月15日、不動堂村へ屯所を移す。
10月14日、※ 大政奉還。
12月 9日、※ 王政復古の大号令。 京都守護職・京都所司代が廃止。
新選組は、二条城へ警護に入る。
12月11日、さらに旧/幕府軍と共に、一旦、大坂城に赴く。
12月13日、伏見方面の治安警備が必須との会津藩からの提言により、伏見まで引き返し伏見奉行所での警護 (会津藩 200余名・幕府歩兵部隊 500余名) に加わる。
京都の拠点が無くなった徳川側としては、伏見が戦略上から前線拠点の確保という重要な意味を持っていた。
12月19日、打ち合わせで二条城に出向いた局長/近藤勇が、伏見奉行所へ帰る途中、墨染あたりで銃撃されて重傷を負う。
その後は、副長/土方歳三が新撰組の指揮を執ることになる。
1月 3〜5日、鳥羽伏見の戦いが勃発。
懸念したとおり、新選組も伏見奉行所の周辺で戦うことになる。
1月 6日、敵に勝る最新鋭の兵器を装備の旧/幕府兵を捨て置き、徳川慶喜は敵前逃亡、近藤勇たちも止む無く江戸に帰還。
2月12日〜25日、近藤勇に、上野寛永寺で謹慎中の慶喜警護が下命される。
3月 6日、「甲陽鎮撫隊」と改称し、甲州勝沼で戦う。
負傷した斎藤一は、手負い隊士たちと江戸から船で会津へ向かう。
3月12日、永倉新八・原田左之助らが離隊して、靖兵隊を結成。
4月 2日、下総流山に陣を敷く。
4月 3日、流山の陣が西軍に包囲され、近藤勇が出頭する。
4月 4日、土方歳三が勝海舟と面談し、近藤勇の助命を嘆願する。
4月11日、江戸城が戦わずして開城されたため、土方歳三・島田魁たちは江戸を脱し。国府台の旧幕府軍に合流する。
4月19日、宇都宮城の戦い。
4月23日、宇都宮城の攻防戦で土方歳三が被弾、戦線離脱し会津へ向かう。
4月25日、近藤勇、板橋刑場で処刑される。
4月29日、新撰組隊士たちが田島陣屋へ入る。
別行動をとっていた土方歳三ら数名は、大内宿を経て、清水屋旅館に到着。
閏4月 5日、藩から新撰組に軍資金が支給され、白河への出陣が発令。
翌日に斎藤一 (山口二郎) ら130余名が出立し、赤津・御代を経て白河へ向かう。
同21日、白河に到着し、白河城へ入る。
同23日から白坂関門・城外南方の最前線に位置する白坂口付近に布陣。
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斎藤一が、負傷した土方歳三に代わって隊長を務める。
京都で創設以来の副長助勤は、三番隊組長の斎藤一のみになっていた。 副長 :安富才助。 軍目付:島田魁、久米部正親。 |
閏4月25日、白河口の戦い。 激戦の末、敵兵を退けるが菊池央と横山鍋二郎が戦死。
処刑された近藤勇の墓を、次月の命日に墓を建立 (天寧寺)し、法名を贈る。
閏4月26日、白河口総督として家老/西郷頼母と副総督/横山主税が白河城に入る。
前日の情勢から斎藤一と純義隊の軍目付/宮川六郎は白坂口の防衛を建言したが、戦略・戦術共に疎い西郷頼母は、「兵力で勝っており、不要」として却下してしまう。
横山主税の執り成しで、新選組と純義隊は白坂口に布陣し本陣の守備に就く。
5月 1日 、再戦が始まるも戦いに無能な西郷頼母のもと大敗、白河城は敵兵に落ちる。
伊藤鐵五郎が戦死し、勢至堂宿までの退却を余儀なくされる。
その後も、白河城の奪還戦に幾度となく参加するが、成すことはできなかった。
5月15日 、※ 諸事情で江戸に戻っていた原田左之助が、上野戦争で彰義隊に加わり負傷し、17日に本所の旗本/神保屋敷で死去。
5月30日、※ 沖田総司、肺結核により江戸で死去。
6月初め、福良本陣へ陣を移す。
6月 9日、藩主/松平喜徳公が、島田魁たち新選組の負傷者の病院としていた千手院を訪れ、見舞っている。。
8月18日、新撰組に、二本松口防衛が発令。
猪苗代を経て、同20日に母成峠/勝岩 (中軍山の第二台場) へ布陣。
怪我が治癒した土方歳三は旧幕府軍の参謀として戦線復帰し、新選組の組長は引き続き斎藤一が務める。
8月21日、母成峠の戦い。
始まりは東軍8百名・西軍3千名で激突、やがて西軍は増援され7千名との戦いとなる。
東軍の戦死者は104名 (名が判明は74名) とされ、新選組隊士は6名が戦死。
8月23日、鶴ヶ城下に西軍が侵入、修羅場と化す。
土方歳三は、兄/容保の意を受け、会庄同盟の庄内藩に援軍要請に向かう桑名藩主/松平定敬に同行し会津を出る。 その後、土方は蝦夷へ向かう。
8月24日、山口二郎(斎藤一)、池田七三郎ら13人が会津に残留を決める。
9月 2日、陣ケ峯の戦い。 斉藤一率いる新選組は、町野主水率いる朱雀士中四番隊・大鳥圭介率いる伝習隊・長岡藩兵の援軍と合流して、西軍と激しい戦いを繰り広げた。
9月 4日、如来堂の戦い。 隊士13名・夫卒5名が戦死。
9月 8日、※ 明治に改元される。
9月17日、桑名藩の17名が新選組に参加する。
9月22日、鶴ヶ城が開城し、会津での戦いが終結。
10月26日、 旧幕府軍、箱館/五稜郭を占拠へ入城する。
11月 5日、土方歳三軍が松前城を攻略。
12月15日、土方歳三が陸軍奉行並及び箱館市中取締役に選任。
3月25日、宮古湾開戦。
4月13日〜29日、二股口攻防戦。
5月11日、一本木関門付近で土方歳三が戦死。
5月14日 、相馬主計が新選組局長に就任。
5月15日、弁天台場の新選組、食料や水も尽き降伏する。
5月18日、旧幕府軍降伏し、戊辰の役が終わり、新選組は消滅した。
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は、戦死者の埋葬を禁止しただけでなく、新選組/隊士の遺族たちに遺品類の所有を厳しく禁じた。
そのため、新選組の会則、軍旗、服装の推移など、ほとんどが詳細不祥になってしまった。 |