会 津 で 遊 〜 ぼ !
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新 選 組 の 足 跡 を 巡 る
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新選組は、京都で会津藩と出会い、その武士道の“義”に憧れる。
会津の精神を目指す友として、最後まで過酷な運命を共に歩む。
「会津だけは裏切らなかった」 と言い残し、多くが散って逝った。
史上最強の剣客集団も、武士の時代とともに終焉を迎える。
しかし、決して歴史は、時代の若き寵児たちを見捨てていない。
精いっぱい “瞬時” を駆け抜けた新選組の足跡を巡る。
[行動]
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土方歳三が、しばしば傷の湯治に訪れていた。
宇都宮で負傷し、清水屋旅館で療養していた。
治るのに、4ヶ月を要した。
当時は、「天寧温泉」と呼ばれていた。
↓ 880m
京都見廻組を率い、最後まで新選組と京都の治安に努める。
鳥羽伏見の戦いで負傷し、和歌山の紀三井寺で死去した。
昭和50(1975)年、紀三井寺にあった墓を会津武家屋敷内に移した。
▲(会津若松市東山町石山院内1
Tel. 0242-28-2525)
・駐車場完備
↓ 690m
《天寧寺 (新選組の屯所)》
近藤勇の墓は、土方歳三が建立。
法名は、藩主/松平容保が贈ったものである。
天寧寺は、新選組の屯所としても使われた。
後に、近藤勇の隣りに .
盟友/土方歳三の .
慰霊碑が建てられた。 .
山道を登るので、ハイヒールでは無理。
▲(会津若松市東山町石山天寧208
Tel. 0242-26-3906)
↓ 2,8 Km
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↓ 3,2 Km
新選組隊士として京都の治安に活躍したが、慶応4(1868)年1月5日に 佐川官兵衛の別選隊に属し、淀の戦いで奮戦するも、戦死。
案内人なしで墓参りは、難しい。
駐車スペースも、無い。
▲(会津若松市門田町黒岩大窪山
〜花見ヶ丘/小田山中腹)
↓ 2,6 Km
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6月15日、土方歳三が登城し、新選組隊士も徐々に参集。
鶴ヶ城を仰ぎ見るや、感極まって、しばし拝んだという。
閏4月5日とも。 藩主より金子を賜っている。
▲(会津若松市追手町1-1 Tel. 0242-27-4005)
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市営の駐車場が数年前から有料、北側にある「鶴ヶ城会館」の大駐車場が便利。
↓ 1,3 Km
慶応4(1868)年4月23日、 土方歳三は宇都宮戦で負傷。
4月下旬に鶴ヶ城下へ到着し、治療のため約3ヵ月間逗留している。
療養所として、藩士/秋月登之助が清水屋旅館を手配した。
▲(会津若松市大町1-1-38)
案内板があるだけで、駐車場もない。
前の道路は往来が多いのに加えて、次の目的地 「会津新選組記念館」 「斉藤一の墓」 も駐車場がないので、近くの有料駐車場を利用して、散策しよう。
↓ 460m
「骨董 むかしや」の2階にあるミニミニ館。
▲有料 (会津若松市七日町6-7 Tel. 0242-22-3049)
↓ 210m
遺言により、阿弥陀寺に墓が建てられた。
蝦夷へ向かった旧幕臣/大鳥圭介らとも袂を分かち、斎藤一ら一部の新選組隊士は会津藩への義を貫き、残留した。
斗南へも赴き、最後まで会津藩と共にした。
▲(会津若松市七日町4-20
Tel. 0242-27-7445)
↓ 3,2 Km
斎藤一が率いる新選組13名は、ここで壮絶な戦いをする。
当初は、全員戦死したと思われたが、6名は生き抜く。
▲(会津若松市神指町中四合)
如来堂の前に駐車スペースあり。
↓ 6,3 Km
市営無料駐車場
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↓ 徒歩 250m
土方歳三の像や、近藤勇の鉢がね、島田魁の函館新選組袖章など新選組関連が展示されている。
以前には新選組の資料が一角を占めていたが、遺族など所有者の要求で返却され、今は少ない。
館内撮影禁止。
▲有料 (会津若松市一箕町大字八幡字弁天下33 Tel. 0242-24-9170)
↓ 徒歩 140m
入り口で、土方歳三の像がお出迎え。新選組に係わる品も、多少展示されている
館内撮影禁止。
▲有料 (会津若松市一箕町大字八幡字弁天下
Tel. 0242-26-1022)
↓ 徒歩 170m
斎藤一が率いる新選組に傷が癒えた土方歳三も加わり、ここから母成口に出陣、戦い後に斎藤隊は会津に残留し、土方隊は北上し会津から去った。
▲(会津若松市一箕町大字八幡字滝沢122
Tel. 0242-22-8525)
↓ 徒歩 360m
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市営無料駐車場
→ 4,4 Km
会津若松IC (磐越道)
時間が許せば、母成峠にも訪れたい
→ 37,9 Km (磐越道 会津若松ICから磐梯熱海ICまで)
↓ 14,1 Km
慶応4(1868)年8月21日、戦いは始まった。
西軍 3,000人に対して、東軍 800人での戦いであった。
▲(猪苗代町蚕養)
↓ 370m
多くの殉難者が眠っている (名前が判明の者は74名のみ)。
その内、新選組の隊士 6名が戦死した。
▲(猪苗代町蚕養ホナリ字乙)
→ 14,4 Km 磐越道 磐梯熱海ICまで
→ 4,7 Km 中ノ沢温泉まで
《 興 味 が あ れ ば 》
土方歳三・斎藤一などの新選組が陣を構えていた場所。
半月ほど滞在している。
碑があるだけで、遺構は何も残っていない。
▲(郡山市湖南町福良字古町 旧/会津藩領)
戊辰の役の時、会津藩の野戦病院となっていた寺。
主に新撰組の負傷者を収容した。
新選組/島田魁も入院し治療している。
▲(郡山市湖南町福良字寺前6164 旧/会津藩領)
母成峠の戦いで散り散りになった新選組の隊士たちが集結した場所。
土方歳三は、斎藤一たちと別れて仙台へ向かい、会津から去った。
▲(北塩原村大字大塩)
宇都宮城攻防戦で足を負傷した土方歳三は、療養のために大内宿を経由して、若松 (鶴ヶ城下) へ向かった。
新撰組は参加していないが、攻防戦が行われた地区の1つ。
▲(北塩原村大字大塩)
舘原代官所
戊辰の役の時、新撰組が宿陣している。
久昌寺近くにあったのだが、遺構などは残っておらず、「文久二(1862)年」銘の道標と、舟運の船着場跡が現存しているだけ。
久昌寺の十二面観音菩薩は、どんな願いでも叶えてくれると村人から聞いた斎藤一は、熱心に祈願して出陣したと伝わる。
▲(喜多方市山都町字舘原)
勢至堂峠
斎藤一が率いる新撰組は、旧/白川街道を通り、勢至堂峠から会津入りした。
現在は、立ち入り禁止となっている。
▲(須賀川市勢至堂 旧/会津藩領)
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