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山 本 八 重 の "ゆ か り" を 巡 る

 明治4(1871)年、京都府顧問となっていた兄/山本覚馬を頼って京都に移住。
 新島襄と結婚し、山本八重は新島八重となる。
 3人が協力して同志社を創立するなど、様々な分野で活躍する。
 京都で大半を過ごしたが、会津魂だけは 生涯 失わなかった。
 「ならぬことは ならぬものです」

 戊辰の役で、城下町の大半を焼失・破壊された。
 その後、鶴ヶ城も解体され、(ゆかり)の地の大半は消失した。
 現存する「(ゆかり)の跡」は少ないが、今なお“義”の精神は受け継がれている。

略歴については、こちら。
鶴ヶ城会館

鶴ヶ城

鶴ヶ城

 鶴ヶ城会館に車を停め、散策。

 ▲(会津若松市追手町1-1
    Tel. 0242-27-4005)
    ・【 Yahoo地図 】

三の丸埋門

三の丸埋門

 戦うことを決意した八重は、戦死した三郎の着物を身にまとい、七連発のスペンサー銃を持ち、母と三の丸埋門から城に入ったとされている。
 その後、1カ月の籠城戦を戦い抜く。
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西出丸 北出丸 西出丸
  ・【 Yahoo地図 】

北出丸   .
 ・【 Yahoo地図 】

 主力兵が藩境警備で不在だったため、郭内まで西軍の侵入を許した。
 八重も迎撃戦に参加し、主に、敵の指揮官を狙い撃ちしたという。
 持ちこたえ、主力兵が帰城するに及び、西軍を郭外に押し戻している。

豊岡宮跡

 夫/川崎尚之助の大砲隊を助け、砲撃に参加。
 正確無比の砲術で、一時は西軍の砲陣を壊滅するほどだった。
 今の豊岡墓地の辺り。
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表御殿跡

御殿跡

 照姫を中心に、元家老の妻/諏訪キチの指揮で、女たちは飯を炊き、弾丸をつくり、負傷者の看護と大活躍をした。
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鉄門前の帯郭

鉄門 帯郭

 小田山から西軍の砲撃が本格化すると、鉄門の外の帯郭に移った。
 天守閣が盾となり、砲弾を避けることができたという。
 松平容保公に、敵の不発弾を説明した場所でもある。(兼定伝)
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雑物庫跡

雑物庫

 降伏することが決定された。
 真夜中の12時ごろ、三の丸雑物庫の白壁に、月明りを頼りに、かんざしで心情を刻んだ。
  「明日の夜は 何国の誰か 眺むらん
    馴れし み城に 残す月かげ

 気丈な八重だったが、涙が止まらなかったという。
 雑物庫は、今の市民プールの手前辺りにあった。
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三の丸埋門の内

三の丸埋門の内

 開城前に、
  「女子供は追放されるが、男は全員が切腹」
との噂が流れた。
 切腹するつもりで男装のまま、弟/三郎の名を騙り、埋門に集合した男の列に並んだ。
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八重之像

八重之像

 平成25(2013)年秋、三の丸跡に建立された。
 同年に、NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映されたことを記念してのことである。
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麟 閣

麟閣

 後に「新島宗竹」の名で、女性向けの茶道教室を開き、裏千家の流派を広めた。 当時の茶道は男性のものだったが、女性へと広め、今の隆盛につなげた貢献は極めて大きい。
 千利休の子/少庵は、会津藩にかくまわれた。
 表千家、裏千家、武者小路千家の3千家の原点は、ここにある。
 ・【 Yahoo地図 】

新島八重の紙芝居

 NHK大河ドラマ「八重の桜」が放映されてから、市内各地で八重関連のものが増えた。
 天守閣郷土博物館の中でも、山本八重の生涯を紙芝居で紹介していた。

   ↓  60 m   (西出丸から)

藩校 日新館跡

日新館跡

 慕った兄/覚馬、最愛の弟/三郎が学んだ藩校。
 銃の取り扱いを教えた白虎隊/伊東悌次郎も学んだ。
 但馬出石藩の夫/川崎尚之助は、蘭学所の教授として招かれたが、後に日新館の教授となり、鉄砲や弾丸の製造などを教えている。
 現在は、碑と説明文があるだけ。

 ▲(会津若松市米代1)   ・【 Yahoo地図 】

   ↓ 330 m

生誕の地

山本覚馬・新島八重生誕の地碑

 弘化2(1845)年11月3日、父/山本権八と母/さくの子として誕生。
 現在は、碑と説明文があるだけ。
 平成元(1989)年、学校法人/同志社が建立。

 ▲(会津若松市米代2)
    ・【 Yahoo地図 】

   ↓ 980 m

泣血氈の誓い (会津戊辰戦争終結の地)

泣血氈の誓いの説明文

 城から追い出された八重は、降伏式を近くから見ていたという。  説明版の最後の文章に、三の丸雑物庫の白壁に刻んだ詠歌が記載されている。
 会津酒造歴史館の角にある。

 ▲(会津若松市東栄町8-7)
    ・【 Yahoo地図 】

   ↓ 340 m

車を停めた鶴ヶ城会館へ戻る。   (食事か土産を買うと駐車代無料)

   ↓ 5.0 Km

父/山本権八之墓

 戊辰(1868)年9月17日、父の権八は玄武隊上土組として奮戦するも、一ノ堰の戦いで討死する。
 光明寺境内にある。

 ▲(会津若松市門田町大字一ノ堰字村西500)
    ・
【 Yahoo地図 】

   ↓ 6.7 Km

山本家の墓域

 大龍寺にある。
 無縁として整理されていたため、後に八重が整備したもの。
 その時に建立された 「山本家之墓」 の筆は、八重とのこと。
 「たらちねの みはかのあとを とふことも
  けふをかきりと なくほととぎす (晩年 墓参時の句です)

山本三郎の墓

弟/山本三郎の墓     .

 慶応4(1868)年1月5日、    .
鳥羽伏見の戦いで奮戦し負傷、
1月11日に江戸で死去した。  .
容保桜

 NHK大河ドラマ「八重の桜」を記念して、山門下の駐車場の傍らに容保桜が植栽された。
 「大河ドラマ“八重の桜”記念植樹
  山本家の菩提寺に里帰りした容保桜
  同志社大学福島県校友会


 ▲(会津若松市慶山2-7-23 Tel. 0242-27-9376)
    ・【 Yahoo地図 】

   ↓ 1. 1 Km

白虎隊士/伊東悌次郎の墓 (飯盛山)

伊東悌次郎の墓

 風雲急を告げ、伊東悌次郎は実戦的な銃の撃ち方を八重に習う。
 やがて、戸の口原へ出陣し奮戦するも、飯盛山で自刃する悲劇の運命が待っていた。

 ▲(会津若松市一箕町大字八幡字弁天下)
    ・【 Yahoo地図 】

 遺髪を埋葬した墓は、天寧寺にある。
 こちらは、ハイヒールなどでは、無理。

   ↓ 3. 0 Km

清水屋旅館跡

清水屋旅館跡

 明治15(1882)年7月27日、夫とともに帰省した新島八重が、逗留した旅館。
 兄/覚馬の先妻との娘夫婦/伊勢時雄・峰も同行している。
 現在は、石碑と説明板があるだけ。

 ▲(会津若松市大町1-1-38)
    ・【 Yahoo地図 】

   ↓ 430 m

会津新選組記念館

会津新選組記念館

 八重が、戊辰の役で使用したのと同型のスペンサー銃も展示されている。

 ▲(会津若松市七日町6-7
    Tel. 0242-22-3049)
    ・【 Yahoo地図 】

   ↓ 210 m

斎藤一の墓 (阿弥陀寺)

斉藤一の墓

 八重は、鶴ヶ城に入城する際、女の命の髪を短くした。
 髪を切ってくれたのが、高木時尾。
 後に、高木時尾は新選組三番隊長/斎藤一の妻になる。

 ▲(会津若松市七日町4-20 Tel. 0242-27-7445)
    ・【 Yahoo地図 】

   → 2. 1 Km    鶴ヶ城へ戻る

興  味  が  あ  れ  ば

   2.7 Km  ←→  鶴ヶ城

松平容保公の墓 (会津藩主松平廟所)

容保公の墓標

 籠城戦の最中、敵の不発弾を分解して、松平容保公に解説している。
 墓へは、ちょっと登るので、ハイヒールでは無理。

 ▲(会津若松市東山町石山院内)
    ・【 Yahoo地図 】


  22.1 Km  ←→  鶴ヶ城

添川廉斎の墓 (安勝寺)

添川廉斎の墓

 小荒井(喜多方市)の出身。
 軍事奉行/広川庄助の従僕となる。
 安中藩に召し抱えられ、漢学や儒学を教え藩風を一変させた。
 新島八重の夫/新島襄は、その門下生。

 ▲(喜多方市字寺町4706 Tel. 0241-23-1292)
    ・【 Yahoo地図 】

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