昭和11(1936)年 29歳
小樽の今井呉服店で初の個展を開催し、油彩35点と版画を出品。
4月 第11回/国画会展 (東京府美術館) に、油彩「樹間雪景」を出品し入選。
5月 安井曽太郎の木版画「初姿」を銀座の版画展で見て衝撃を受け、独学で木版画の制作に
着手し初の「少女」を制作。
第5回/日本版画協会展 (東京府美術館) に、初めての木版画「子供 (「少女」とも)」「子供
坐像」を出展し初入選。
これ以降、版画制作へ傾倒していく。
昭和12(1937)年 30歳
故郷を去って初めて帰省し、坂下町(会津版下町)の叔母/イノ(母の妹)を訪ねる。
昭和7(1932)年とも。
4月 第12回/国画会展 (東京府美術館) の版画部門で初入選。
これ以降、版画の連続出品を続ける。
昭和13(1938)年 31歳
4月 第13回/国画会展 (東京府美術館) に、油彩画・版画を出品するが落選。
勉強をし直すため数寄屋橋の研究所でクロッキーを学ぶ。
※「クロッキー」とは、速写画(速写)のこと。 動きのある対象を10分ほどの短時間で
素早くスケッチ(写生・描画)する。
昭和14(1939)年 32歳
クロッキー研究所 (新宿) に通い学ぶ。
永瀬義郎の著書「版画を作る人へ」に感動し、モノタイプ版画を模索する。
※ モノタイプ版画とは、版木 (板、金属など) などに絵具で直接描き、乾かない台材
(紙、布など) に写し取る技法。 原則として1回しか刷れない。
5月 小野忠重に誘われて造形版画協会に入会し、第3回/造形版画協会展 (東京府美術館)
に、「憩い」「少女」を出品。
9月 長女/直子が誕生。
第26回/二科会展に、油彩「裸婦と少女」を出品し初入選。
昭和15(1940)年 33歳
この年 「会津の冬」の第1号を制作。
ゴーガン、ムンク、ルドンの作品に魅かれ、手法を模倣しエッチングを始める。
※ エッチングとは、化学薬品などの腐食作用を利用して金属板に描く技法。
直接金属板に線を彫る技法より描きやすい。
6月 第4回/造形版画協会展 (東京府美術館) に、「憩い」「顔」「粧ひ」
「猫と少女」「喜び」を出品。
9月 第27回/二科会展に、油彩「窓辺」を出品し入選。
昭和16(1941)年 34歳
4月 第5回/造形版画協会展 (東京府美術館) に、「御能俊覚」「洗髪」「猫」「北海の魚市」を
出品。
9月 第28回/二科会展に、油彩「北海の魚市」を出品し入選。
昭和17(1942)年 35歳
4月 第6回/造形版画協会展 (東京府美術館) に、未発表の木版画とエッチングの25点を
出品。
5月 銀座/鳩居堂画廊で初の版画展を開き、木版画「会津の冬」、モノタイプ「御能俊覚」
「洗髪」などを出品。
中国/北京へ、スケッチ旅行。
12月 造形版画展 (浜松/松菱) に、「顔」「鏡/1、2」、エッチング「憩い」「顔」を出品。
昭和18(1943)年 36歳
4月 第7回/造形版画協会展 (東京府美術館) に、「農家/1、2」などを出品。
昭和19(1944)年 37歳
戦争が激化し作画活動が制限、家計のため朝日新聞社に入社。
『週間朝日』の表紙やカットなどを手掛け、新たな分野と人脈を広げる。
装丁で知り合った恩地孝四郎の一木会に入会。
6月 日本版画協会に入会し会員となる。
第13回/日本版画協会展 (東京府美術館) に、「会津版下」を出品。
昭和20(1945)年 38歳
空襲が激しくなり家族を会津へ疎開させ、朝日新聞/独身寮 (国分寺) に転居。
8月 終戦になったので家族を呼び戻し、義兄の上谷家 (雑司ヶ谷) に移り住む。
12月 『東京回顧図絵/高見沢版画研究所』に、恩地孝四郎の誘いで「浅草風景」を掲載。
昭和21(1946)年 39歳
3月 『日本民俗図譜/富嶽出版社』に、「会津の冬」が掲載。
4月 第14回/日本版画協会展 (東京都美術館) に、「会津の冬/A〜C、子供」「会津の童」「童」
「慶州にて」「終戦後の銀座」「働らく土の子/A〜D」「椿」「夫人像」「北京の裏町/A〜B」
「会津の松」を出品。
第20回/国画会展 (東京都美術館) に、「会津の冬/A〜C」を出品。
5月 『一木集・第二輯』に、「銀座」を掲載。
昭和22(1947)年 40歳
1月 斉藤清版画展 (東和工芸ギャラリーで) に、「会津の冬」などを出品。
4月 第15回/日本版画協会展 (東京都美術館) に、「憩ひ」「東京復興」「直子像」を出品。
第21回/国画会展 (東京都美術館) に、「湖畔」「武蔵野」を出品。
6月 第1回/美術団体連合展 (東京都美術館) に、「少女」「ビル街の裏路」を出品。
9月 『国立博物館ニュース』の創刊に際し、表題の文字制作を依頼される。
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参考文献:生命の指標 斎藤清など