明治41(1908)年、沼尻鉱山の硫黄鉱石を運ぶため、大原 (沼尻)と岩越線の川桁駅の間に、レール幅309mm・距離16.5kmの人力動力/耶麻軌道が敷かれた。
明治45(1912)年、レール幅762mmとなり、人力から馬車に代わる。
大正2(1913)年5月11日、一般旅客や荷物を運ぶ営業を開始した。
馬1頭が時速12kmで、12人乗りの客車2両を引いた。
大正3(1914)年1月9日、ドイツ製/コッペル蒸気機関車に代わり、輸送力が飛躍的に強化。
その後、ガソリンカーに代わる。
昭和15(1940)年、秋元発電所の建設のため、名家駅から資材搬入用の分岐側線が新たに建設される。
昭和21(1946)年、年間53万人の乗客を運び、いち早くディーゼル機関車を導入。
昭和29(1954)年、路線をモデルにした歌謡曲 「高原列車は行く」 が大ヒットする。
しかし、海外から安い硫黄が輸入され始め、売上の大半を占めていた採掘量が激減。
昭和32(1957)年には無配に転落する。
昭和42(1967)年8月1日、磐梯急行電鉄へと改称し、裏磐梯への観光鉄道として再起を図るも、昭和43(1968)年7月に倒産し、10月14日に全線が休止してしまう。
昭和44(1969)年3月27日、正式廃止された。