会 津 を 構 成 す る 南 会 津 町

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田 島 丸 山 歴 史 公 園

以下の緑色の文は、現地の「説明板」から

 この地は古来より埋葬地であり、元禄年間に自性庵が建てられ、教林寺の墓地として使用されていた。
 大正時代、すぐ下を流れる田島堰が生活用水として使用され始めると、衛生上から廃墓地となる。
 現在は、丸山歴史公園として町民の憩いの場となっている。
 ▲(南会津町田島字丸山  旧南会津郡役所裏)

 さいば遺跡  元禄五年 (一六九二年) 教林寺は火災にあって焼失した。 九世の自観和尚が本堂再建するまでのあいだ「さいば」(今の丸山歴史公園ひろば) に仮寺を建てて住んだ。  自観和尚は、本堂再建後は教林寺「自性庵」と号し隠居寺とした。 後世の住職も移り住んだ。 十九代雪山和尚が、明治二十二年まで住んだが、その後は住む人もなく廃寺となった。
 しかし、ここを隠居寺として住んだ住職の数基の墓が今に残っている。    田島観光協会

西宮神社

 「兵庫県西宮市に鎮座する西宮神社が本社。
 祭神は蛭子命で、一般には恵比寿神の名で知られる。  商売繁盛の神として多くの人々に信仰されてきた。
 又、御蔵入騒動の時、小栗山喜四郎が西宮の恵比寿の神符を配りながら、領内村々への連絡役を果たしたと伝える。


 
湘雨先生句碑
 「下郷町塩生出身。
 田島銀行に勤めるかたわら春日部雪後と力を合わせ、「南山結社」を起こし、後、西町に南屋書店を開く。
 久米正雄 (号三汀) 等も投稿した俳誌「オクヤマ」を創刊し、のちに自由律「海紅」として活躍。
 昭和七年、朝日新聞社が募集し、入選した「肉弾三勇士の歌」の作詞として全国的に有名。
 
結び地蔵
 「丸山公園が造成されるとき、現在地に移された供養地蔵。
 その下には、整備拡張の時掘り起こし集められた遺骨が埋納されている。
 後、縁結びの地蔵として崇敬された。

 

小栗山喜四郎

 「享保五年 (一七二〇年) 南山御蔵入騒動で斬首獄門となった六人の犠牲者中、惟一人田島で逮捕、処刑されたため、ひときわ地元民に印象が深く、義民と讃えられる。
 事件後、逮捕の場となった旅籠小川屋の主人が供養のため建立したと伝える。

 
湯田玉水君碑
 「田島町西町出身。
 少年時代より、その画才は、町の人々を驚かしたと伝えられる。
 後、東京に出て川端玉章の門に入って絵を学び、文展・帝展に連年入選し、日本南画界を代表するまでに大成したが、惜しいことに昭和四年、五十一才の若さで世を去った。
 
翆園先生賛徳碑
 「檜枝岐村出身。
 名は馬場滋雄。
 苦学して医者となった翆園先生は「医は仁術」を旨として、地域の医療に努めるかたわら、御蔵入騒動を戯曲化し、「南山義民之碑」を著すなど、文化人医者として町民から慕われた徳人であった。

 
傾城供養塔
 「会津西街道の中心的宿場町であった田島町の西町には、花町 (芸者置屋・料理屋) があり、当時四〇人ほどの芸者がいたという。
 亡くなった芸者を供養するために建立されたもので、碑面には「南無阿弥陀佛」の六文字が幽かに見える。
 
土井晩翠先生「義民の詩」
 「 昭和十六年、知人の招聘で田島を訪れた晩翠先生は、図らずも、「南山義民」の話を聞いて大変感動され、「目にみえぬ、神秘の力我を引き、義人の墓に、今日詣でしむ」と、その感慨を詠まれました。
 「目に見えぬ 神秘の力 われを引き
        義人の墓に けふ詣でしむ

大越信氏顕彰碑

大越信氏顕彰碑  「田村郡大越町出身。
 昭和十九年南会津地方事務所蚕糸課長として赴任。  戦後復興のなかで南会津地方の養蚕業振興に尽力した。  とりわけ立木桑園の改良と条桑飼育法の導入は、当地方の養蚕業を大きく発展させる基となった。

 

道祖神社

 「明治十七年、会津三方道路開削のため、鎌倉崎の路傍にあったものを西宮神社隣に移した。
 道祖神は、村への疫神悪霊の侵入を塞ぎ、旅人の交通の安全を守る神で、自然石に文字を刻んだもの、像を彫ったものがある。
 木道祖神は、子宝・安産・家内安全を祈ると願いが叶えられるとされ、多くの人々に信仰された。

南山六義人頌

南会津の田島町     郷の一隅護摩山に
嘗って立ちにき六地蔵  義人の霊の弔ひに
 喜四郎 喜左衛門 茂左衛門
 兵左衛門 久治右衛門
 更に儀右衛門壮烈の
 かたすみを残す丘のうへ
   昭和十六年春四月   土井晩翠
 平成七年五月此に南山御蔵入騒動六人の義民の諸霊を慰めると、ともに、供養の為、六地蔵尊を再建し、田島町の歴史を顧りみ、記念とする。
                  南山義民地蔵尊建立会

 

南山義民之碑

 「享保五年 (一七二〇年) 南山御蔵入領で起きた大百姓一揆で、指導者6名が死罪獄門となったが、この義挙を永遠に後世に伝えようと、田島の有志が昭和三年に建立した。
 碑文は漢学者杉原夷山の撰文。

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