一     里     塚

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松 川 街 道 (会津中街道)

大松川地区案内図 下郷区間略図 全区間略図 松川街道総合案内板

松川街道については、こちら。


札の辻 (会津若松市)

大町一之町の四つ角 「札の辻」の石柱

@(御山)は消滅

  岩屋観音との追分道標》
 岩屋山上にあった岩屋観音 (今は照谷寺の境内に移築) との分かれ道。
 子授けの観音として、多くの人に信仰されていた。
 「文化八辛未三月  右 たじま日光  左 いわや観音
 
面川宿
 宝積寺口から南へ出て、大川沿いを進む。
 最初の宿場。

 
《面川荒川の道標》
   「若松駅へ一里三十三丁廿間五尺
    田島日光街道
    上三寄駅へ一里九丁廿四間三尺


A(石村)は不詳

B南原一里塚 (会津若松市)

 
香塩宿
 参勤交代の際に、藩主が休憩する御殿が設けられていた。

C上小塩 (小塩) 一里塚 (会津若松市)

 
小塩宿
 闇川橋をわたった先の宿場。
 これから、舟子峠を越える。

D舟子一里塚 (会津若松市)

 
桑原宿
 平成3(1991)年、大川ダムの完成で若郷湖に集落や街道が水没した。 [桑原村]
 先の街道が、2路に分かれる。
  ◇ 大川/西岸の「小出通り」は、参勤交代などに利用。
  ◇  〃 東岸の「田代通り」は、旅人や廻米など物資の輸送に利用。
     「 →田代宿 → 水門宿 → 小松川宿 → 」で「松川宿」に合流。
  ◇ 田代から宮内・張平・塩生を経る「塩生通り」は荷駄類の運搬に利用。

E〜Hは不詳
 
小出宿 (下郷町)
 桑原宿と同じく大川湖畔にあるが、水没を免れた。
 桑畑宿との間に大川の渡船場があり、多くの旅人が足を休めた。
 
弥五島宿 (下郷町)
 主な任務は、小出宿と松川宿への継ぎ送り。
 《村勢の推移》 ◇ 寛文 5(1665)年、 村高 : 556石余
◇ 文化15(1818)年、村高 : 636石
◇ 寛文 5(1665)年、家数 :  69 ・ 人数 : 440 ・ 馬 : 62
◇ 宝暦 8(1758)年、家数 : 106 ・ 人数 : 445
  赤岡地蔵堂前の道標》

   「右ハ のぎわ道  和田村
    左ハ やま道
    寶暦十四癸未
(甲申?)」
 

《大松川の
    首なし地蔵》

 
松川宿 (下郷町)
 藩境である海抜1,468mの大峠を越え、険しい道程8里 (32Km) 先の板室宿へ向かう。
 駄賃銭が5〜8割増しだったことから、いかに大峠が険しかったかが分かる。
《松川宿御本陣跡》 .


I杉ノ沢一里塚 (下郷町)

一里塚の左側 杉ノ沢一里塚の現地文 一里塚の右側





 駐車スペースから200メートルほど入る。

会津側で2基ともに現存している唯一の一里塚。


  《上之村道標》

  「右 のぎわ
   左 せひし
 (勢至堂)」
 

《杉ノ沢の道標は、
      消滅 》
 
  《田島道との別れ道/観世音道標》

  「右 松川 みち
   左 たじま みち

  《観音沼手前の観世音道標》

  「天保八年 右のキハ○○
   閏四月十七日 左○○

J野際一里塚 (下郷町)

野際一里塚の左側 野際一里塚20m前の碑

 観音沼の駐車場近くの笹薮の中に、2基の名残りが残っている。
 「一里塚 (松川街道) 左二十米」が目印。


 
野際新田宿(野際新宿) (下郷町)
 元禄8(1695)年、会津藩は氏家を結ぶ松川街道を新たに開削し、藩境の険しい大峠の両端に宿を新たに設けた (北側に野際新田宿、南側に三斗小屋宿)。
 

戊辰戦争で焼け残った家
 

《倉沢の石像群》
 

《奥州駒返し坂》
   「元禄八年
    奥州駒返坂
 

有賀左司馬戦死之地
 

日暮の滝

<一般車両の乗り入れ禁止>

K中峠一里塚 (下郷町)

L大峠一里塚 (下郷町)

 
三斗小屋宿 (黒羽藩領)
 元禄8(1695)年、会津藩は氏家を結ぶ松川街道を新たに開削した。
 険して藩境の大峠は険しく登り口に宿を設ける必要があったが、黒羽藩は費用の用立てができず、会津藩が宿駅を整備した。


≪氏家追分≫

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