極悪非道の長賊に関する参考資料

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明治維新 偽りの革命 教科書から消された真実
[森田健司/河出文庫]

<※ 上記書籍から抜粋>  .
 明治維新は日本に輝かしい「近代」をもたらした革命とされている。
 しかし、明治新政府軍は無法な行いで庶民から嫌われていた。
 江戸の世を全否定して、自らの「イメージ戦略」に力を注いだ新政府の実態とは いかなるものだったのか?
 気鋭の思想史家が、当時の「風刺錦絵」などの史料や旧幕府軍の視点を通して、「正史」では語られることのない真実を明らかにする!

新政府軍こそが時代錯誤だった!
 平和的解決の拒否、庶民の軽視、文化の破壊・・・
「開明的」とは名ばかりの蛮行を暴く!

はじめに
 重い年貢と固定された身分による差別、悪しき封建制度によって生まれながらの権利を奪われていた庶民たちが遂に解放される時が来た。それこそが「明治維新」である。
 しかし、このような歴史観は、適切なものと捉えてよいのだろうか。
 幕府の医官を務めた桂川甫周の次女、今泉みねの口述をまとめた『名ごりの夢』は、幕末の実相を知ることのできる畢竟の名著である。 〜 〜 〜
 そこには次のような言葉がある。
 明治になってから教育をうけたものは、新しい支配者の一方的な強引なアイディアで、一つの鋳型(いがた)()められ、選択の自由より以前に、選択の方向がきめられているといったわけであった。僕らが育った『聖代』とは、そういう時代だったのだ。どこの革命政権でも、それは同断だ。新政府に加担する学者たちは、歴史を一方におしまげる。
  〜 〜 〜
 実際に史料を調べてみると、確かに新政府は 〜 〜 〜 自分たちが正しい存在であることを、多くの学者を使って、「証明」し、「喧伝」したようである。
 それは逆にいえば、新政府が、実際は庶民の多くから嫌われていたからであろう。   〜 〜 〜
 攘夷を掲げて政権を奪取した新政府は、開国和親の路線を探ることとなるが、果たして当初の理念は どこへ行ってしまったのか。

第一章 新政府軍の暴挙と庶民の反応
 第一節 無法の新政府軍
  消し去られた「江戸庶民の思い」

 江戸の庶民たちの中で、新政府軍は不人気極まりなかった。 江戸の庶民は、旧幕府軍の勢力挽回を祈り、新政府軍が自分たちの町から姿を消すよう願った。
 一体なぜ、新政府軍は嫌われていたのだろうか。
 その答えは、おそらく「正史」から消し去られたところにある。 〜 〜 〜
 それでは、江戸の庶民が幕府を評価した一番の理由は何だろうか。 疑念の余地すらなく、答えは「平和」だったことである。 これは、江戸という町に限ったことではない。 他の地方に住む多くの庶民にとっても、平和で、治安のよいことが、幕府を支持する根拠だった。 〜 〜 〜
 江戸市中では、長らく高い水準で維持されていた治安が急激に悪化した。 具体的にいうと、集団強盗が頻発したのである。 狙われたのは豪商や名士たちで、その野蛮な行いは「勤皇」を口実としていたことが特徴だった。
 この時期に強盗に狙われた町は、江戸市中に限らず、関東一円に広がっていた。
  〜 〜 〜
 そしてその感情は、新政府が江戸を「支配」 始めてから、更に強められていく。
  〜 〜 〜
 当時彼らが江戸で何をしていたのか、その証言が記録されている。
 官軍もつまらないいいがかりをつけてよく町人を斬った。 抜き身で二町も三町も追いかけられて余りこわいので知らない家に飛び込むと、それなり玄関で絶命したなどという話はざらにある。 肩へ(にしき)(きれ)をつけているので、「(きん)ぎれ」と呼び、いったいにひどく毛嫌いした。
 新政府軍のこのような振る舞いに、「正史」は全く触れることが無い。 彼らが、普通に生活していた庶民を斬殺し、そして罪にも一切問われることがなかった事実は、闇に葬られてしまったのである。 〜 〜 〜
 新政府の方こそが、「犯罪者」を多く抱えて出発したものであることを、記憶しておく必要がある。
 <以降の「第二節〜第五節」で、当時の錦絵から導いた庶民たちの心情を、見事に解き明かされている。
 そして、中央集権化された教育システムにより、いかに歴史が歪められたかが解説されている。>

第二章 新政府軍に立ち向かった人々
 鳥羽伏見の戦いは、たった四日で終わっている。 旧幕府軍「約一万五千」に対したのは、新政府軍「約5千」。 この圧倒的な数の差にも拘わらず、旧幕府軍は惨敗したのである。 それは一体、なぜなのだろうか。 〜 〜 〜
 最大の理由は、〜 〜 (偽造された)「錦の御旗」である。 〜 〜
 慶喜を大いに動揺させた。 〜 〜 旧幕府軍を精神的に追い詰めた錦の御旗によって、勝敗は決せられたのである。
 錦の御旗は、当時から世に知られていた正統なものではない。 これは、岩倉具視の命により、側近の玉松操 (1810〜72) がデザインしたものだった。 玉松は元僧侶てあり、還俗した後は国学を学んだ私塾まで開いた人物である。
 彼は錦の御旗のデザインを、平安時代後期の学者、大江匡房 (1041〜1111) の書から着想を得て完成させたと伝えられる。
 玉松のデザインの下、実際に錦の御旗を制作したのは、薩摩藩の大久保利通と、先ほども名前が出た、品川弥二郎だった。 本来、錦の御旗は天皇から官軍の大将に下賜されるものだが、それを、勅命を受けていない者が勝手に作ったというとになる。 疑念の余地もなく、偽造の旗である。 〜 〜 〜
 この時期の新政府は国益という立派なものではなく、傍若無人に私利を追求していたと結論づけるしかない。 〜 〜 〜
 戊辰戦争は、まるで「近代と近世の戦い」であるかのように表現されることがある。
 それは、開明的な思想を持つ新政府軍が、時代に取り残された頑冥な旧幕府軍を征伐したという「物語」である。 しかし、庄内軍の姿勢をみる限り、野蛮で時代遅れなのは、新政府軍だったのではないか。

第三章 旧幕府軍から眺めた明治維新
 第一節 江戸の町と民を守った勝海舟――幕末の三舟1
  明らかな「誤り」

 江戸を守ったのは、勝を中心とした旧幕臣や、必死に手紙を書き続けた天璋院や和宮といった、大奥の書生たちである。
 新政府軍に、町や民衆を守るという発想はなかった。
 この事実を前提としなければ、維新期の実態は見えてこない。

 第二節 新政府軍に堂々と対峙した山岡鉄舟――幕末の三舟2
  鉄舟の圧倒的な気迫

 鉄舟・西郷会談があって初めて、数日後の勝・西郷会談が実現した。
 そして、これによって江戸の町は救われたのである。

 第三節 陰の立役者、高橋泥舟――幕末の三舟3
  「三舟」最後の一人

 「幕末の三舟」というフレーズを聞いて、即座に三つの名前が頭に浮かぶ人は、決して多くないだろう。 勝海舟と山岡鉄舟は思い出せても、最後の一人が出てこないのではないか。 しかし、その人物がいなければ、勝や鉄舟の歴史的な活躍はなかった。
 三舟の最後の一人は、一般的な知名度は高くなくとも、働きの大きさでいえば、彼らと同等に捉えるべき偉人なのである。 〜 〜 〜
 頭山は、三舟について こうも述べている。
 「海舟は智の人、鉄舟は情の人、泥舟にいたってはそれ意の人か」。「意の人」、それはすなわち「意志の人」である。 〜 〜 〜
 勝も鉄舟も、明治新政府の要請を受け、出仕した。
 しかし、泥舟は生涯、新政府の下で働くことはなかった。 彼の峻厳なる精神は、決して二君に仕えることを受け入れなかったのである。

第四章 明治政府のイメージ戦略と「三傑」の実像
 戊辰戦争が異様な点は、話し合いによって解決しようとしていた旧幕府を、ありとあらゆる手を尽くして、戦争に誘い出したことだろう。 そして、まさに「見せしめ」として、会津藩を血祭りに上げたことにある。 〜 〜 〜
 <この章には、ペリー来航の様子や断固として我が国に有利な交渉をしたことを記録した「墨夷応接録」の公表を禁止し秘匿、史実とは全く逆な「歪んだ正史」を作成していることなどが記載されている。>
 ペリーが再来して条約に関する交渉を行った際、幕府はで大学頭 (昌平坂学問所の長官) だった林復斎 (1801〜59) に対応させたが、ペリー一行は彼の頭脳と弁論力に打ち負かされ、最も望んでいた通商に関する項目を、どうしても条約の中に入れることができなかった。 普通に考えれば、当時を代表する儒学者だった復斎、一軍人のペリーが敵うはずはなく、これは当然の結果と言える。
 しかし、明治政府はこの事実を <事実と反する様子として江戸城内は上を下への大騒ぎになったなどと> うまく改変することに成功した。 〜 〜 〜
 「墨夷応接録」は、存在すら永らく公表されず、公刊されることも一切なかった。
 「墨夷応接録」には、ペリーが止むを得ず自国の要求を取り下げたことや、艦隊の軍人たちの不法行為を咎められ、うろたえる様子が生々しく記録されている。
 幕府の高い外交能力を窺わせるこの文書は、だからこそ積極的に内容を広められることができなかったのである。
 なお、「墨夷応接録」は大正二年 (1913) になって、『大日本古文書幕末外国関係文書 (附録之一)』(東京大学史料編纂所編、東京大学出版会) に収められて、ようやく公刊された。 しかし、これは価格的にも流通的にも容易に手に入れることのできる書ではなく、加えて「くずし字」が多く含まれた候文(そうろうぶん)だったため、一般の人々に知られることは ほとんどなかった。
 この書が同時代の人々も容易に読める形で出版されるのは、実に平成三十年 (2018) になってからのことであった。 〜 〜 〜
 遅くとも明治九年 (1876) には発見されていた「墨夷応接録」が、百四十年以上も単行本として発行されていなかったという事実は変えられない。
 この歪みが、現代の歴史教育にも看過できない影を落としている。

<以降「第二節〜第五のに、偽りに美化された明治政府の実体が記載されている。
 伊藤博文などは、「テロリストとしての伊藤」と評している。>

 時が流れて、明治十一年 (1878) 五月十四日午前八時三十分頃、大久保<利通>を乗せた馬車が、暴徒に襲われた。 犯人は石川県士族の島田一郎 (1848〜78) ら六名である。 憎しみの余りだろうか、大久保の顔面は切り刻まれ、割れた頭から脳漿がこぼれていたという。 潔く自首した島田たちは、「斬奸状」を携えていた。
 そこには、次のような内容が書かれていた。
  (1) 公儀を閉ざして民権を抑圧し、政治を私物化している。
  (2) 法令が朝令暮改であり、官吏の登用にコネが使われている。
  (3) 無用不急の土木事業などで、国費を無駄遣いしている。
  (4) 憂国の士族を排斥し、西南戦争のような内乱を引き起こした。
  (5) 外交に失敗し、不平等条約の改正を遂行できず、国威を失墜させた。
 〜 〜 〜
 全て剣を取るものは、剣にて滅ぶ 〜 〜 〜
 『新約聖書』の有名な言葉を想起させるような終幕を迎えた。 〜 〜 〜
 馬車から引きずり出された大久保は、抵抗する余裕もなく、なます切にされてしまった。 犯人たちは、「公論の敵」を倒したのである。 〜 〜 〜
 繰り返すまでもなく、倒幕派の本当の思いは、「自分たちが政権を取りたかった」という単純なものである。 その究極な姿が、参議内務卿となった大久保利通による独裁だった。 彼が暗殺されたのは、論理的に当然である。 専制を倒すために暴力を用いた者が、専制を理由に暴力によって倒されただけだからである。

 1871(明治4)年末、右大臣岩倉具視を大使とする使節団 (岩倉使節団) がアメリカ・ヨーロッパに派遣され、まずアメリカと交渉したが目的を達することはできず、欧米近代国家の政治や産業の発展状況を細かく視察して帰国した。 〜 〜 〜
 この説明を読むと、彼ら使節団がアメリカ側と議論の末、条約改正の予備交渉を断られたように思えるが、事実は かなり異なる。 アメリカ側は、はじめ議論自体を拒絶したのである。 それは、彼らのエゴからなどではなく、ただ単に使節団が条約について交渉する「資格」を持っていなかったからだった。 彼らは外交交渉に関する権限を持っていることの証となる公文書、すなわち全権委任状 (国書御委任状) を携行していなかったのである。 交渉以前の大失態という他ない。
 政治の素人であること以上に、この使節団が最低限の事前準備すら行わず訪問してきたことに、アメリカ側が呆れ果てたことは間違いない。 この後、大久保と伊藤博文 (1841〜1909) が急いで委任状を日本に取りに戻ったが、条約改正に関する予備交渉は、アメリカを含む全ての訪問国で遂行されずに終わった。
 以上が偽りのない歴史的事実である。
 明治政府は徳川幕府の外交姿勢を長らく批判し続けたが、歴史に残る先の失敗を挙げるだけでも、その資格を満たしているか疑義が生じる。
 なお、日米和親条約に至る交渉の際、林復斎と筆頭として応接掛は、ペリーに全権委任状の有無について問われ、当然のように提示している。

おわりに
 明治維新という社会変革によって引き起こされた最大の問題は、〜 〜 他ならぬ「歴史の断絶」である。
 成立して間もない明治新政府は、これまでの長い歴史を消し去って、日本を国家の原始的な姿、すなわち「神武創業」に戻そうとした。
 しかし、その原始的な姿は、神話の中にのみ存在する幻想にすぎない。 〜 〜
 そして、この「歴史の断絶」という深刻極まる問題は、遠く現代日本にも尾を引いている。 だからこそ、我々は理不尽にも断ち切られた、江戸と現在をしっかりと繋ぎ直さなければならないと思う。


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