極悪非道の長賊に関する参考資料

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明治という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト
改訂増補版 [原田伊織/毎日ワンズ]

<※ 上記書籍から抜粋>  .

 今も続く長州薩摩社会
 「維新」「天誅」をとなえた狂気の水戸学が生んだ 「官軍」という名のテロリストたち
 御所を砲撃し、天皇拉致まで企てた吉田松陰一派の長州テロリスト
 偽りに満ちた「近代日本」誕生の歴史

はじめに
 本書は、ちょうど二年前に、私としては「止むに止まれぬ思い」に駆られて世に問うた同名の単行本の改訂増補版である。 「止むに止まれぬ思い」とは、危機感と表現してもよく、私がどのような危機感に襲われて筆をとったかは、本書をほんの数頁も繰っていただければ直ぐにご理解いただけるはずである。
 「明治維新」という無条件の正義が崩壊しない限り、この社会に真っ当な倫理と論理が価値を持つ時代が再び訪れることはないであろう。


 僅か十年で私を根底から変えてしまった最初のきっかけ・・・それが「廃仏毀釈」という、俗にいう「明治維新」というものを象徴する言葉であった。
 誰もが学校の歴史の時間に習ったはずの、この「廃仏毀釈」とは、俗にいう「明治維新」の動乱の中で、明治元年に長州・薩摩を中心とする新政権の打ち出した思想政策によって惹き起こされた仏教施設への無差別な、また無分別な攻撃、破壊活動のことを指す。 これによって、日本全国で奈良朝以来の夥しい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊され、僧侶は激しい弾圧を受け、還俗を強制されたりした。 ひと言でいえば、長州・薩摩という新勢力による千年以上の永きにわたって創り上げられた固有の伝統文化の破壊活動である。  ~ ~ ~
 長州・薩摩の下層階級が最初にかぶれた思想とは実に浅薄なもので、単純な平田派国学を旗印に掲げ、神道国教・祭政一致を唱えたのである。  ~ ~ ~
 奈良興福寺や内山永久寺の惨状は、中でも筆舌に尽くし難い。 興福寺だけで二千体以上の歴史を刻んできた仏像が、破壊されたり、焼かれたりしたことか分かっている。 僧侶は、ほとんど全員が神官に、文字通り“衣替え”したり、環俗することを強要された。  ~ ~ ~
 内山永久寺に至っては、更に酷いもので、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡さえみられない。 姿を残していないのだ。 この世から抹殺されてしまったのである。 「廃仏毀釈」とは、それほど醜い仏教文化のせん滅運動であった。


「官軍教育」が教える明治維新
 私自身が、長州・薩摩の書いた歴史、すなわち「官軍教育」を叩き込まれて育った世代である。  ~ ~ ~
 老若男女を問わず私たち日本人は、この百四十年以上「官軍教育」以外の歴史を教えられたことはないのである。  ~ ~ ~
 実に美しい歴史感であるが、私は、以上のすべてを否定する。 ここでいう「否定」とは、史実でないという意味である。  ~ ~ ~
 当時の実態から著しく乖離しており、こういうレベルで幕末を語るから、史実とかけ離れた歴史物語が生まれるのである。
 例えば、もう一つ挙げれば、「勤皇」の「志士」と呼んでいる、先に挙げた「薩長土肥」の人物像がでたらめに麗しく語られている。 結論だけを先に述べれば、彼らは現代風にいえば「暗殺者集団」、つまりテロリストたちである。  ~ ~ ~
 しかし、私は、テロリストは断固容認しない。 テロを容認しないことが、当時も今も正義の一つであると信じている。 したがって、彼らを「志士」と評価することなどあり得ようはずがなく、テロリストはどこまでもテロリストに過ぎない。 ~ ~
 歴史に「もし」(ヒストリカル・イフ)は禁物、とよくいわれるが、敢えて「もし」と考えてみる。 もし、長州・薩摩のテロを手段とした討幕が成功せず、我が国が「明治維新という過ち」を犯さなかったら、我が国はその後どういう時代を展開し、どういう国になっていたであろうか。  ~ ~ ~
 このことについては、もっともっと細密に精査、研究する必要があるが、少なくとも吉田松陰の主張通りに大陸や南方侵略に乗り出すことはなく、挙句に大東亜戦争という愚かな戦争に突入し国家を滅ぼすことだけは断じてなかったであろう。


 三条家という長洲派の過激派公家は四年前の文久三(1863)年の「八月十八日の政変」で追放されており、岩倉具視を中心とする少数の討幕派公家はいずれも下級公家である。  ~ ~ ~  そこで、岩倉具視や薩摩の大久保利通たちはどうしたのか、偽の勅許 (偽勅) を作った。 すなわち偽の「討幕の密勅」である。 これは天皇、摂政の署名もなければ、花押もないという、“天晴な”偽物である。
 この事実は、本来特筆されるべき史実である。 民族統合の象徴として、民族の歴史そのものとして存在していた天皇は、いざとなればいつでも国家の最高権力者たり得るのだ。 そういう存在である天皇の政治的意思を表明する「勅許」というものを、己の政治的野心を遂げるために「偽造」したのだ。 この国においてこれほどの悪業、大罪が他にあるだろぅか。  ~ ~ ~
 大東亜戦争を強引に惹き起こした中心勢力は、長州軍閥の巣窟といわれる帝国陸軍の参謀本部であるか、国家が存亡するまで止まなかった長州・薩摩政権による天皇の利用は、ここから始まっているのだ。


 条約の批准手続きのための外交団の目付として井伊直弼に抜擢されて渡米した小栗上野介忠順の知性と品格に「ヘラルド・トリビューン」をはしめとするアメリカの現地紙が感嘆の記事を掲載して軽易を表したことは広く知られている逸話である。
 こうした幕府の高度に訓練されたテクノクラートの存在は、彼ら自身の素地は無論無視することはできないが、幕府がそれなりに外交経験を積んできたことを示している。 嘉永六年にペリー率いる黒船が来航し、その武力威圧に屈して幕府は遂に開国したというのが「官軍教育」に則って今も学校で教える日本史教育である。 ところが、実際には幕府は天保十三(1842)年に『薪水給与令』を発令し、文政八(1825)年から施行されてきた『異国船打払令』を完全否定し、この時点で対外政策を百八十度転換した。 即ち、この時点で実質的に開国したと看做すことができるわけで、長州・薩摩サイドの事情で後に書かれた“歴史”とは二十年以上の開きがあるのだ。
 また、寛政九(1797)年以降、長崎・出島へアメリカの交易船が来航し高い数は少なくとも十三回確認されており、ペリーの来航によって日本人が初めてアメリカ人と接触したかのような歴史的教育は歴史的事実とは異なるのだ。 更に弘化二(1845)年には日本人漂流民を救助したアメリカ捕鯨船マンハッタン号が浦賀に入港し、浦賀奉行と対面しており、翌弘化三(1846)年には、アメリカ軍艦二艦が浦賀に来航し、通商を求めたが、幕府はこれを拒否している。  ~ ~ ~  ペリーの黒船が来航して、初めて見るアメリカ人や軍艦に右往左往し、それによって生まれた混乱に乗じた倒幕運動によって幕府が一挙に崩壊し、薩長政権が初めて欧米と渡り合うようになったなどという歴史は存在しないのである。  ~ ~ ~
 とにかく多くのデタラメがまかり通っている。


 さて、『王政復古の大号令』を発して、幼い天皇を人質として利用した岩倉具視、大久保利通らのクーデーターは成功したのか。 結論から先に言えば、失敗に終わった。  ~ ~ ~  このクーデターが成功していれば、論理的にも戊辰戦争は起こっていないはずである。
 学校教育は、まずこの点から教科書を書き直していかなければならない。 ~ ~
 慶喜は、朝廷に対して「王政復古の大号令の撤回」を要求した。
 調停は遂に、『徳川先祖の制度美事良法は其の侭被差置、御変更無之候間』云々との告論を出した。 つまり、徳川政権への太政委任の継続を承認したのである。 この告論では『王政復古の大号令』を取り消すとは明言していないが、実質的に徳川慶喜の要求を呑んだことになる。 徳川幕藩体制は維持されることになったのである。
 ここに、岩倉具視と長州・薩摩の偽勅許による討幕、軍事クーデターによる討幕のオーソライズの策謀は敗北した。 「明治維新」は失敗したのである。  ~ ~ ~
 以上のような史実がある以上、学校教育は「明治維新派失敗した」と教えるべきではないか。 少なくとも、『王政復古の大号令』が完璧に失敗、偽勅による幕府転覆の策謀が未遂に終わったことだけは、教育というものの良心に拠って立って明瞭に教えるべきであろう。  ~ ~ ~
 江戸期とは私たちが考えてきたものよりも遥かに高度なシステムをもた社会であり、今や経済史の面からの視点も加えて「江戸システム」と呼ばれるほど世界史的にも類を見ない高度な文明社会として評価されつつある。 単なる封建時代であったとするのは、長州・薩摩が意図して歪めた歴史解釈である。


戦争を惹き起こすためのテロ集団・赤報隊の悲劇
 赤報隊が、正式に組織されたのは年が明けた慶応四(1868)年だが、その前に西郷は相楽たちに命じた。 打ち手を失いつつあった長州・薩摩の“重石”のような存在であった西郷は、相楽たちに何を命じたのか。
 江戸において、旗本・御家人を中心とする幕臣や佐幕派諸藩を挑発することである。 挑発といえば聞こえがいいが、あからさまにいえば、放火・略奪・強姦・強殺である。 倫理観の強かった江戸社会においては、もっとも罪の重かった蛮行を繰り返した。
 何せ毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家に押し入るのである。 日本橋の公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の老舗高崎屋といった大店が次々とやられ、家人近隣の住民が惨殺されたりした。 そして、まず薩摩藩邸に逃げ込む。 江戸の市民は、このテロ集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れた。 夜の江戸市中からは人が消えたという。
 遂に幕府は、庄内藩酒井忠篤に江戸市中取締を命じたのである。 藩の成り立ちというものもあるが、会津藩松平容保が京都守護職を受けたことが戊辰会津戦争の悲劇に通じたように、庄内藩が会津と共に最後まで長州・薩摩を中心とした反乱軍に抗戦したのも、その端緒はこの「江戸市中取締」を拝命したことにある。  ~ ~ ~
 挑発に成功した相楽たちは、すぐ正式に討幕軍の一部隊としての「赤報隊」として組織され、長州・薩摩軍東山道軍の先鋒を務めることになる。 かれらは長州・薩摩軍東山道軍鎮撫総督指揮下の部隊として組み込まれたのである。 ~ ~ 赤報隊の掲げる「年貢半減」は大いに受け、長州・薩摩の東進を大いに助けたのである。 ~ ~
 ところが、長州・薩摩は赤報隊を「偽官軍」であるとして追討した。 ~ ~ ~
 要は、相楽たち赤報隊は、「維新」に失敗しつつあった長州・薩摩と岩倉具視たちに利用され、使い捨てにされただけなのだ。~ ~ (当然「年貢半減」など実行されなかった)
 勅許を偽造してまで決行した長州・薩摩と岩倉具視の討幕のめのクーデーターは失敗し、『王政復古の大号令』は実質的に消滅した。 そこで長州・薩摩は『鳥羽伏見の戦い』へと幕府への挑発に成功し、一気に『戊辰戦争』という内乱へ持ち込んで結局武力で討幕に成功した。


血塗られた京の文久二年
 「勤皇志士」などという。
 勿論、長州テロリストの“自称”であり、学校教育などを通じて今日までそれが定着したに過ぎない。 史実というものを尊重するならば、勤皇志士=長州テロリストと直訳していただくと間違いない。  ~ ~ ~
 自称するにも「志士」とはよくいったものである。
 本来「志士」とは、「国家、社会のために貢献する高い志をもった人」のことをいう。 論語に曰く、
    「志士仁人は生を求めて以て仁を害するなし」
 即ち、志士とか仁者と呼ばれる(資格のある)人は、自分の生存のために人の道にも背くようなことはしない、という意味である。 長州の桂小五郎たちは、京において、略奪、放火、暗殺というテロ行為を意識して積極的に展開した。 徳川から政権を奪うという単なる一藩有志の政治目的に、それを行った。 そういう彼らを「志士」と呼ぶことは、いかなる詭弁を弄しても無理である。  ~ ~ ~
 これらのテロを行ったのには、薩摩藩士や土佐藩士、と土佐の郷士崩れなども含まれているが、圧倒的中心が長州のテロリストである。
 彼らのやり口は非常に凄惨で、首と同隊、手首などをバラバラにし、それぞれ別々に公家の屋敷に届けたり、門前に掲げたり、上洛していた一ツ橋慶喜が宿泊東本願寺の門前に捨てたり、投げ入れたりした。  ~ ~ ~
 テロリストの多くは、「會津」を「あいづ」と読めなかった。 天下の親藩の名さえも読めず、それがどこにあるのかも分からぬ者が多くいたのだ。 彼らは、そういう知的レベルの集団であった。  ~ ~ ~
 こういう輩が後に「官軍」を名乗ったのである。


 近年になって、幕末もので知られるある作家が、会津戦争時の残虐行為に長州は加わっていないとお書きになり、これまで永年のご自身の著述を「誤りであった」と表明された。 山口県と福島県の“和解運動”を繰り広げておられることと関係することかもしれないが、史実を述べるに際して、現代の都道府県と容易に必要以上に結びつけるものではなかろう。
 では、殺された会津藩士の男根を切り取り、それを死体の口にくわえさせるというような、或いは八歳の幼児から老婆まで凌辱の対象とし、事が済めば殺し、或いは裸にして投げ捨てるというような、私のいう「人道に反する犯罪」を「官軍」の名において会津で繰り広げたのは、どこの藩だというのであろうか。


 この狂気が再び上京して惹き起したのが『蛤御門の変』(禁門の変)である。 首謀者は、もっとも危険な狂気の男・久坂玄瑞、来島又兵衛、福原越後、そして、過激派の理論的指導者とされる久留米の真木和泉たちである。
 それは、『池田屋事変』から二ヵ月も経っていない。
 「禁門」とは「禁裏の御門」の略称であり、これは御所の一部である。 このあたりでの戦闘がもっとも激しかったので、長州過激派のこの侵攻を『禁門の変』とも呼ぶが、この戦闘中に長州勢は御所内部に攻め入り、御所に発砲、砲撃も行った。
 我が国の歴史上、御所が本格的に攻撃された唯一の事例である。
 これを行ったのが、口を開けば「尊皇! 尊皇!」と喚き、「尊皇」の名において無差別殺人というテロを繰り広げてきた長州であったのだ。
 これを以て朝廷は、長州を公式に「朝敵」としたのである。


吉田松陰というウソ
 この人物ほど脚色された度合いの激しいケースも珍しい。 はっきりいって、私たちが教えられてきた、今も教えられている吉田松陰とは、残念ながら「ウソ」であるといっていい。  ~ ~ ~
 それは明治が成立してから山縣有朋がでっちあげた虚像である。  ~ ~ ~
 官軍思想の定着した今、吉田松陰というウソは“大ウソ”の部類に入る。 ~ ~
 松陰と松下村塾という言葉は一体となっており、松陰=松下村塾と強烈に刷り込まれている。 ところが、松下村塾とは、陽明学者ともみられる玉木文之進の私塾である。 松陰が松下村塾を主宰していたというような事実は存在しない。


 長州のテロリストが拠り所としたものは「水戸学」であり、そのリーダーたちはこれをうまく利用した。 「尊皇攘夷」を呼吸するのと同じような頻度で喚きながら天皇と同義ともいえる御所を砲撃するという暴挙について、「形は足利尊氏でも心は楠木正成なら許される」といい放つ詭弁と傲慢さは、気狂い状態に達してしまった当時の長州人ならではのものであろう。 そして、政権簒奪に成功するや否や。目を疑るような豹変を平然と行った。 欧米を神のように崇したのた。  ~ ~ ~
 この時期に「維新」という言葉が生まれたのではない。 「昭和維新」を嘆くばかりに「明治維新」という言葉が当時の言葉となり、この言葉が一般したのである。 つまり。「明治維新」とは昭和になってから、極右勢力によって一般化した言葉であって、幕末の御一新のその時に使われた言葉ではない。 まずこのことを、基本的な知識としてしておくべきである。  ~ ~ ~  即ち、「明治維新」とは「昭和維新」が燃え盛ったことによって翻って一般化した言葉であり、思想概念である。


 戊辰戦争全体を通して、「官軍」の近代化された装備が幕府軍を圧倒したという通念があるが、これも誤りである。 端緒となった『鳥羽伏見の戦い』でもそれが決定的な薩長軍勝利の要因になったとされるが、『鳥羽伏見の戦い』では特に幕府軍の装備が勝っており、薩長軍は天皇を担いで京都から脱出することも検討していたようだ。 私たちは、テレビドラマや映画などで繰り返し繰り返し薩長軍の圧倒的に有利なフィクション映像を刷り込まれているから、俄かには信じられないであろうが、一度徳川慶喜が大阪城に退いた後からでも幕府軍が反抗していれば、薩長軍は壊滅したはずである。 なぜなら、幕軍にはまだ洋式部隊が温存されていたし、海軍は幕府しか保有されていなかったのである。 ただし、ごく普通に戦えば、の話しである。 ひと事でいえぱ、指揮官のいない軍は戦えないのだ。
 それも、指揮官自らが戦場を放棄するというぶざまな体たらくでは、どんな装備において勝っていたとしても戦いでの勝利は望めない。  ~ ~ ~
 幕兵をを捨て去り、松平容保についてこいと命令して幕府軍艦で江戸に逃げ帰った件については、既に驚くべき内容の資料も明らかになっており、ただただ唖然とするが、幕府にいくら人材がいたとしてもトップがこれでは現代の企業や官公庁同様、組織はもたない。  ~ ~ ~
 薩摩軍が戦闘態勢を整えて待ち構えていたのに対して、滝川隊は行軍隊形であったため小銃・大砲の弾込めを行ってなかったという点である。 更に、京都見廻組は、要人警護を目的とした、いってみれば警察隊であって小銃を装備していなかったのである。 また、この衝突発生が夕刻であり、本格的な戦闘が夜間に入ってからであったことも、一般に流布されているお話と違うことを付記しておかなければならない。 現実に、薩摩隊はこの時、焼夷弾を使用しており、伏見地方の戦闘で伏見市街が焼失したのはこれによるものである。 伏見方面では、新撰組が白刃突貫攻撃で薩摩軍を退却させ、会津藩兵も突貫攻撃を敢行して薩摩軍を桃山まで退却させたことを、新撰組生き残りの永倉新八が『新撰組顛末記』で証言している。
 翌一月四日、形勢を建て直した幕府軍は、佐久間信八指揮の精鋭歩兵部隊を投入、後方に砲兵部隊を展開させ、果敢なことで知られる佐久間隊を最前線に押し出すという極めてオーソドックスな形で構成に転じる。 佐久間隊の歩兵は、元込め式ライフルであるフランス製のシャスポー銃を装備しており、遥かに劣るミニエー銃が主力である薩摩軍を撃破して前進した。
 前日とは優劣が完全に逆転し、幕府軍が本来の力を示し始めたのである。


 西軍は、いよいよ三春から二本松へ侵攻することになるが、ここでとんでもない事態が発生する。 三春藩五万石の露骨な裏切りである。 それは、「恭順」でも単なる「降伏」でもなく、明白な裏切り行為であった。 最大の被害者は二本松藩であったが、二本松藩だけでなく奥羽諸藩では三春藩の裏切りを「反盟」という言葉で記録に残している。
 この時期における三春藩の「反盟」行為の詳細に触れることは避けたい。 ただ、奥羽越列藩同盟は、三十一藩の盟約によって成立したが、戊辰東北戦争を通じて一人の戦死者も出さなかったのは三十一藩中、唯一つ、三春藩のみである。 死者の数を以てものをいおうとするのではない。 三春藩は嬉々として薩長の走狗となってはたらいた、といわれるが、まさに三春藩は積極的に「反盟」に走り、同盟藩を明白な意思を以て裏切ったのである。  ~ ~ ~
 古臭いことをいうが、命と引き換えてでも約束を守ることは、武家の倫理観の基本中の基本である。 盟約に加わったがために二本松も仙台も相馬も、福島もそして、会津、庄内も三春を信じ奥羽の仲間だと信じた。
 二本松兵、仙台兵などは、三春のために命を落とした。 三春藩は、そういう奥羽の友藩をあからさまに裏切ったのである。 幼い藩主に代わってこれを首謀したのは、家老の秋田主税。 奥羽の恥さらしという人もいる。 二本松藩などは、盟約を守る、その一点のみで城を枕に藩ごと討ち死にしたのである。 金銭しか基準にしない平成人からすればバカであろうが、盟約、約束とは武家の精神文化を尊ぶ者にとってはそういうものである。
 明治以降、二本松と三春の婚姻は、 ~ ~ ~  長らく成立しなかった。 先の「平成の大合併」(平成十七年)の際も、地理的条件には妥当性があるといわれながら、二本松と三春の合併は実現しなかった。 ~ ~ ~
 三春藩の反盟行為については、間違ってもこれを平成の感覚で解釈するものではないだろう。 時は慶応四(1868)年七月の終わりである。
 この2カ月前も前に、三春藩が西軍サイドに兵の派遣を要請していたのである。


 会津戦争も  ~ ~ ~  それぞれの戦闘、最終的な籠城戦の概要については、夥しく世に出ている刊行物に譲るが、ここでは会津領内において西軍が行った残虐非道としかいいようのない戦争犯罪に触れておきたい。 これを無視することは、歴史に対する侮蔑に他ならないと考えるからである。  ~ ~ ~
 もっと悲劇的な事実は、二百三十名以上の武家の女性が戦死または自刃していることである。 「女子供に至るまで」といういい方があるが、会津は文字通り「女子供に至るまで」が長州・薩摩の侵攻に対して防衛線を展開したのである。
 「先の戦争」というーえば戦後日本では「大東亜戦争」のことを指すが、近年まで会津では「戦争」といえばそれは「会津戦争」のことを意味した。 それは、会津自身が総力戦を展開したことによる幾多の悲劇を味わったことによるだけでなく、長州・薩摩、そして土佐の、特に長州人による信じられないような非道な、残虐極まりない蛮行に大きな原因がある。 籠城戦が終わった会津城下、領内で長州藩兵などが行った、とても人間が行ったとは考えられない残虐非道な行為の記憶は、簡単には消えそうもないものである。
 昭和六十一年、長州・萩市が「もう百二十年もたったので」として議会決議をして会津若松市との友好都市関係の締結をもうしいれたが、会津は「まだ百二十年しか経っていない」としてこれを拒絶した。
 当然であろう。 「始末」は、まだ済んでしないのだ。


 明治元(1868)年九月二十二日、鶴ヶ城開城。 城下には戦死体が放置されていたが、西軍はこの埋葬を禁止した。 みかねたある庄屋がこれを埋葬したが、彼は明治政府民生局に捕縛され、投獄されている。 この時、次は首を刎ねると脅かされて釈放されたが、会津・飯盛山にはこの庄屋の行為を顕彰する碑が残されている。 多くの嘆願書が寄せられ、民生局が死体埋葬の許可を出したのはなんと半年後のことであった。 死体の埋葬を禁止したのは「(長州らの)民生局」である。
 また、終戦直後、西軍の兵士は戦死した藩士の衣服を剥ぎ取り。男根を切り取ってそりを死体の口に咥えさせて興じたという。 更には、少年たちの睾丸を抜くということもやった。 何という暴虐か。  ~ ~  心までも下賤な人非人、外道というべきであろう。 しかし、彼らは日本の近代を切り開いたとされる「官軍」の兵なのだ。
 死体の処理がまたむごい。 大きな穴を掘って、筵や風呂桶に死体をぎゅうぎゅう詰めにし、まるでごみをすてるように穴に投げ込んだという。 これを徴用した「賤民」(約七百名強)にやらせた。 そして、この塚を「罪人塚」と呼び、あくまで埋葬とは区別したのである。  ~ ~ ~
 「會津に処女なし」という言葉がある。 会津の女性は、ことごとく長州奇兵隊を中心とした西軍のならず者に強姦されたという。
 前出の、会津戦争史を多面的に検証されている会津歴史研究会の井上昌威氏が、『会津人群像二十六号』に「会津にある小梅塚」と題する一文を寄せておられる。 氏は、膨大な文献を調査するだけでなく、会津各地に伝わる伝承、遺跡なども地道に調査し、会津戦争の実態を立体的に整理されている点で、その成果は高く評価されるべきものである。 会津領内の女性が如何に残酷な被害を受けたかについては、この井上氏の検証結果を参考にさせていただく。
 (長州の)山縣有朋が連れ込んできた奇兵隊や人足たちのならず者集団は、 ~ ~  女と金品を求めて村々を荒らし回ったのである。 彼らは、徒党を組んで「山狩り」と称して村人や藩士の家族が避難している山々を巡り、強盗、婦女暴行を繰り返した。
 集団で女性を強姦、つまり輪姦して、時にはなぶり殺す。 家族の見ている前で娘を輪姦するということも平然と行い、家族が抵抗すると打ち殺す。 中には、八歳、十歳の女の子が凌辱されたという例が存在するという。 高齢の女性も犠牲となり、事が済むと裸にして池に投げ捨てられたこともあった。 要するに、奇兵隊の連中にとっては女性なら誰でも、何歳でもよかったのである。
 坂下、新鶴、高田、塩川周辺では、戦後、犯された約百人に及ぶ娘・子供のほとんどが妊娠していた。 医師は可能な限り堕胎したが、それによって死亡した娘もいたという。 月が満ちて生まれてきた赤子は、奇兵隊の誰の子かわからない。 村人たちは赤子を寺の脇に穴を掘って埋め、小さな塚を作って小石を載せて目印にしたのである。
 村人は、これを「小梅塚」とか「子塚」と呼んだ。 乳が張ってきた娘や子供は、自分の「小梅塚」に乳を搾り与えて涙を流していたという。 井上氏は、実際にこの被害に遭った八歳の女児の末裔の方にお会いして直接話を聞くなど、各地を回って伝承や記録を精査されて、奇兵隊の蛮行の一部を明らかにされたのである。
 これらを、「人道に対する犯罪」といわずして何というのか。
 もはやこれ以上は、書く気にもなれない。


 注目すべき嘆願書を最後に挙げておきたい。 これについては他の文献・資料では、なかなか詳細を確認できないばかりか、存在そのものが余りに世に知られていないのだが、先に飲用した『会津人群像二十六号』に、大竹邦洋氏が原資料を精査され、詳しく述べておられるので、これを参考にさせていただく。
 これは、会津藩が籠城戦を戦い、鶴ヶ城を開場した後、領内の百姓たちが作成・提出した松平容保父子の嘆願書である (朝日新聞は「百姓」を差別語とするが、筆者はそう考えない)。
 これは、開城から約三カ月後の明治元(1868)年十二月に会津五郡の百姓たちが作成・提出したものである。 会津五郡とは、当時の会津藩領内すべての郷村のことをいう。
 つまり、会津の百姓がこぞって藩主親子の助命を嘆願したのだ。 ~ ~ ~
 嘆願書は、二千五百字を超える長文で成り、各郷村の「肝煎り」たちによって書かれた(南会津では御蔵入)。 長州兵たちの城下における残虐非道な行為をについてやんわりと皮肉を込めて表現するなど、筆者たちが非常に高度な文章力をもっていたことを示している。 この嘆願書を名主たちが東京へ上って差し出すのだが、実はその旅費などを町方も負担したのである。 「五人組内より金札で四両一朱也」を明けて一月末日までに収めたことが、近年(平成二十一年)発見された古文書からで明らかになったのである。 つまり、この嘆願書は、会津五郡の百姓のみならず、会津藩領民の総意を反映しているとも解釈できる。  ~ ~ ~
 最近の“歴史好き”が「会津では藩主と領民との関係が非常に悪かった」ということをしきりにWEBサイトなどに書いているが、集落の焼き払いは確かに戦の非情というべきであるものの、一事を以て大事、全体をみない近年の若い“歴史好き”には困ったものである。


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≪明治という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト≫
改訂増補版 [原田伊織/毎日ワンズ] から抜粋

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