久しぶりに訪れたところ、門の脇にあったはずのイチョウのの幹が見当たらない。
老木だったなので、枯れたのだろうと思った。
写真撮影が目的なので、いつもだったら、疑問を残しながらも帰る。
この時だけは、なぜか問うてみようと思った。
玄関はカギがかかっているし、開いている勝手口から声をかけても反応がない。
不思議と帰る気持ちは湧かず、声をかけ続けると、住職の奥さんらしき女性が顔を出す。
ゴミ袋を、両手に提げている。掃除をしていたようだ。
質問をすると態度が一変、玄関から入るようにいう。
玄関が開けられ、すぐさま座敷に通された。
真新しい木の輪切が、床の間に鎮座している。
話しが始まる。
前の道路の下水工事をした頃から、元気がなくなり、徐々に枯れ始めたという。
樹高30メートルを越える大木なので、倒れたら危険である。
ますます枯れ具合が進み、止む無く、切り倒すことになった。
歴代の住職や檀家の長老たちから、会津藩の本陣を見た証人のイチョウなので、大切にするよう伝えられてきた。
その後の火災により本堂などの建物は焼失しており、その時代を語るものとして、特別な思いがあったという。
切る前夜は、悲しくて一晩中、泣けて眠れなかったという。
翌朝、作業が始まった。
切り始めて間もなく、チェーンソーが異常音を発し、止まった。
伝え継がれてきたように、戊辰戦争の時の弾丸が喰い込んでいたのである。
保存するため、その部位を輪切にしてもらうことにした。
再び伐採をはじめた作業員が、驚きの声をあげた。
弾痕の脇に、仏の姿をした木のコブが現れたのである。
確かに、御仏のお姿をしている。
寺の家宝と思い、丁寧に磨き上げ、床の間に飾った。
ある日、来客が年輪を数えたそうである。
弾丸の喰いこんでいた場所は、140番目の位置だった。
その年は、ちょうど、戊辰の役から140年の年だった。
奥さんは言う。
余りの悲しさを慰めてくれるために、同じ140年後に、お姿を現したのだ、と。
帰りしな、大銀杏があったところを見た。
若々しい枝が、空に向かって、無数に伸びていた。
昔あった幹を、取り囲むように。
後日、伐採した日付を聞くのを忘れたことに気付いた。
電話をしたのだが留守だったため、新聞記事を調べた。
平成20(2008)年12月17日付の記事だった。
クレーン車のゴンドラに乗った作業員らによって、枝を切り落とした後、幹は数回に分けて慎重に切断されたようだ。
住職の談話が載っていた。
「衰えた姿をこれ以上さらすのは忍びなかった。
何百年もの間、どんなことを見てきたのかを考えると感慨深い」
当然、伐採後の“逸話”は記載されていない。