《閑話》 正 月 の 行 事  

 子供の頃(昭和30年代/初めから中頃)の正月行事を思い出してみた。
◇ 1日 若水汲み 嫡男の初仕事として、新しい水を汲み (当時は手押しポンプ) 神棚に供える。 若水を使って母が湯を沸かし、茶碗に梅干しと砂糖を入れた白湯を、新年の無病息災を願い家族そろっていただく。
  〃 元朝参り 男性は近くの住吉神社に参拝する。
女性は、4日に参拝。
◇ 4日〜 挨拶回り 三が日を終えると挨拶回りが始まるが、本家だったため来訪者を迎え待つだけだった。
一通り終わると、母の実家へ挨拶回りに出掛ける。
兄弟の多い母は長女であり、祖父母にとって初孫であったため従弟・従妹の中で最も可愛がられ、待ち望んだ日の1つであった。
◇ 6日頃
  〜小正月
獅子舞い めでたい獅子舞いが各家を訪れて、玄関先で舞い踊る。
前もって準備した折り紙で包んだ"おひねり”を渡すと、大げさな仕草で最後のひと舞いをする。
毎年、獅子に頭を噛まれたが、学力向上した覚えはない。
なお、おめでたい言葉を唱えて新年を寿ぐ会津万歳も訪れていたと指摘されるが、こちらは覚えがない。
◇ 7日〜 七草 あまり記憶がない。
ただ、妹と弟が7歳になった時に行われたように思う。
◇ 10日 十日市 両親そろって出掛ける数少ない行事で、一番の楽しみだった。
生活は豊かでなかったため起き上がり小法師以外の買い物は覚えていないが、途中の三角屋でのラーメンが一番の楽しみだった。
急な来客などで出前はとるが、これ以外の外食の記憶はない。
◇ 11日 鏡開き 真空パックなど無い時代、お供えの鏡餅は固くなっており、木槌で割る。 小さく割った鏡餅を母へ渡し、揚げている間に揚げている音と香りが漂い、ウキウキしたものである。
餅は年末に自宅でついたものだが、いつ頃からか母の実家から送られてくるようになり、臼と杵は納屋の片隅で忘れられた。
◇ 14日 団子さし 家では行わなかったが、母の実家で数回の記憶がある。
「団子の木(みず木)」の枝先の新芽を取って、そこに餅米粉を練って丸めただんごを刺し、鶴亀・鯛・宝船・大判小判を描いた飾りを付け、家の大黒柱に飾る。
白黒の雪景色の季節、あたかも春を迎えたようで美しかった。
◇ 15日 歳の神
 (塞ノ神)
しめ飾りや神棚の飾り、お札などを焚き上げて歳神様を天にお送りする。 この“歳の神”の火にあたると病気にならないとされ、嫡男の役目として焼いた餅やスルメを持ち帰り、家族で分けて食べ全員の家内安全・無病息災を願った。
火を縄に移し、火が消えないようにクルクルと縄を回しながら持ち帰る人々も多く見られた。
この日は、元服の儀を執り行う日でもあった。
◇ 17日 観音講 既婚者女姓だけで開催される飲食会に母は出かけた。
女性たちの結束や、相互協力を深めるためであるが、忙しい正月行事を取り仕切った女性たちへの慰労会でもあった。
締めには、小豆入りの姫粥「ひめいい」が出される。
会津万歳》 三河万歳の流れを汲む漫才と伝わる。
 会津藩/江戸屋敷に奉公する中間・小者や、臼ほり・屋根葺き職人などの出稼ぎのため上京した郷村出身者が在京中に三河万歳を身に付け、帰省してから、会津の生活や習慣など風土にあった形に姿を変え、独自の万歳に進化したとされる。
  ・ 年始万歳 ・ 屋立万歳 (棟上げ)
・ 養蚕万歳 (養蚕の発展) ・ 頼朝万歳 (男子の健やかな成長)
・ 経文万歳 (年忌など)
 一説には、豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷公が推奨したからとも。
 行事には欠かせないものだったが、後継者種不足で途絶えるのを惜しみ、郡山市湖南町 (旧/会津藩領) の「会津万歳安佐野保存会」が保存・継承している。
 語りは本格的(?)な会津弁なので、現代っ子には分かりづらいかも。