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ご   縁   の   あ   る   地

平 将 門 の 首 塚


将門首塚の入口 大蔵省が建立した故蹟保存碑 将門首塚の碑 将門首塚の墓
▲(千代田区大手町1-2)
 関東大震災の後、大蔵省が首塚の上に仮庁舎を建てようとしたが、役人14人が怪死した。
 太平洋戦争後、米軍が首塚の撤去でブルドーザーを入れたが横転し多くの負傷者が出た。
 将門を描いた映画「帝都物語」の撮影中、機材の落下・火災など様々な事故が起こった。
 今でも、落ち武者の亡霊が出没すると噂され、石碑に触ると呪われると云われる。

将門首塚の由来

将門首塚の由来の説明文

 今を去ること壱千五拾有余年の昔 桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍平良将の子 将門は 下総国に兵を起し忽ちにして坂東八ヵ国を平定 自ら平新皇と称して政治の革新を図ったが 平貞盛と藤原秀郷の奇襲をうけ 馬上陣頭に戦って憤死した 享年三十八歳であった 世にこれを天慶の乱という
 将門の首級は京都に送られ 獄門に架けられたが 三日後白光を放って東方に飛び去り 武蔵国豊島郡芝崎に落ちた 大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという 村人は恐怖して塚を築いて埋葬した これ即ち この場所であり 将門の首塚と語り伝えられている。
 その後もしばしば将門の御霊が祟をなすため 徳治二年 時宗二祖真教上人は 将門の蓮阿弥陀佛という法号を追贈し 塚前に板石塔婆を建てゝ日輪寺に供養し さらに傍の神田明神に その霊を合せ祀ったので漸く将門の霊魂も鎮まり この地の守護神になったという。
 天慶の乱の頃は平安朝の中期に当り 京都では藤原氏が政権をほしいまゝにして我世の春を謳歌していたが 遠い坂東では 国々の司が私欲に汲々として善政を忘れ 下僚は収奪に民の膏骨血をしぼり 加えて洪水や旱魃が相続き 人民は食なく衣なく その窮状は言語に絶するものがあった その為 これらの力の弱い多くの人々が 将門によせた期待と同情とは極めて大きなものがあったので 今もって関東地方には数多くの伝説と 将門を祀る神社がある このことは 将門が歴史上 朝敵と呼ばれなが 実は郷土の勇士であったことを証明しているものである また天慶の乱は武士の台頭の烽火であると共に 弱きを助け悪を挫く江戸っ子の気風となって その影響するところは社会的にも極めて大きい 茲にその由来を塚前に記す。

史蹟 将門塚保存会
保存会事務所 千代田区外神田二ノ十六ノ二 神田神社内  .
電話 (二五四) 〇七五三番  .


酒井家上屋敷跡の説明文

酒井家上屋敷跡

 江戸時代の寛文年間 この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり 歌舞伎の 「先代萩」 で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸い・原田甲斐の殺害されたところである。

将門首塚の碑

将門首塚の碑の説明文

 昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍に将門の首塚と称するものがあった。 現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(一三〇七)に真教上人が将門の霊を供養したもので、焼損したたびに復刻し現在に至っている。
 明治二年(一八六九)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置され、大蔵大臣阪谷芳郎は、故跡保存碑を建立し、後人のために史跡保存の要を告示されたのである。
  平成三年三月

千代田区教育委員会  .

将門塚

将門塚の説明文

所在地 千代田区大手町一の二
指定  昭和四六年三月二六日
 平の将門は、平安時代中ごろに関東地方で大規模な反乱 (天慶の乱) を起こした人物です。 徳治二年 (一三〇七) 遊行寺二世真教上人が江戸に行脚した折、将門塚が荒れ果てていたため塚を修復し、板石塔婆を建てて傍らの日輪寺において供養したとされます。 その霊は神田明神において祀られ、神田明神が移転した後も塚は この地に残りましたが、大蔵省再建事業の際に崩されました。 幾多の変遷の後、昭和四五年 (一九七〇) に将門塚保存会などにより現況のように整備されたものです。
 平成二四年三月
東京都教育委員会  .

《改装後》

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