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伊 東 正 義 の 略 歴 ( 政 界 )

前頁 (誕生から官僚時代) までについては、こちら。

(資料提供) 小林守 氏     .

昭和38(1963)年

 自由民主党に入党。
 党歴 / 全国組織委国民生活局社会福祉部長 同/水産組織部長 同/農林組織部長
政調機械化順応問題副委員長 政調林業基本問題委員会委員長
政調農林部会副部会長 政調山村振興対策特別委員長
政調土地問題調査会副会長 政調審議委員 政調副会長
政調海洋対策特別委員長  

 11月21日
 第30回衆議院議員総選挙に福島2区から、自由民主党公認で出馬し、初当選。
 50歳。
 官職 / 社会労働委員会、大蔵委員会委員に就任。

昭和39(1964)年

 団体職 / 全国農業共済協会会長に就く。
 団体職 / 全国さんま捧受網漁業生産調整組合理事長に就く。

昭和41(1966)年

 団体職 / 日本国土調査測量協会会長に就く。
 団体職 / 日本土壌協会会長に就く。

昭和42(1967)年

 1月29日
 第31回衆議院議員総選挙で落選。

 この年
 団体職 / 福島県農業共済組合連合会会長に就く。
 団体職 / 畑地農業振興会会長に就く。

昭和44(1969)年

 12月27日
 第32回衆議院議員総選挙でトップ当選 (福島2区、2期目)
 官職 / 社会労働委員会理事に就任。

昭和47(1972)年

 12月10日
 第33回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、3期目)
 官職 / 社会労働委員会委員、農林水産委員会委員に就任。

 この年
 団体職 / 全国農業共済協会会長を退任し顧問に就く。
 団体職 / 全国漁業共済協会会長に就く。

昭和48(1973)年

 団体職 / 福島県農業共済組合連合会会長を退き、顧問に就く。
 団体職 / 土地改良測量設計技術協会会長に就く。後に退く。

昭和50(1975)年

 団体職 / 全国共済水産業協同組合連合会会長に就く。

昭和51(1976)年

 12月5日
 第34回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、4期目)
 官職 / 予算委員会理事に就任。

昭和54(1979)年

 10月7日
 第35回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、5期目)

 11月9日
 初入閣にもかかわらず、大役の官職 / 国務大臣 内閣官房長官 (第43代) に就任。
 (第2次大平内閣)。

 この年
 団体職 / 畑地農業振興会会長を退く。

昭和55(1980)年

 6月11日
 官職 / 国務大臣 副総理に就任 (第2次大平内閣)。

 6月12日
 官職 / 国務大臣 内閣総理大臣臨時代理に就任 (大平正芳の急死により)。
 内閣総辞職の手続を執りまとめ、内閣総理大臣臨時代理の任を選挙後まで完遂し、選挙で圧勝した。
 ポスト大平として総裁の要請があったが、朋友の急死の直後との理由で固辞した。
 大平派の鈴木善幸が総裁になったが、外務大臣を要請され就任することとなる。

 6月22日
 第36回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、6期目)

 7月17日
 官職 / 国務大臣・副総理を退職。
 官職 / 内閣総理大臣臨時代理を退任。
 官職 / 内閣官房長官(第43代)を退任。
 官職 / 外務大臣(第109代)に就任 (鈴木善幸内閣)。
 団体職 / 大臣就任のため、日本土壌協会会長を退く。

昭和56(1981)年

 5月
 官職 / 外務大臣を退任。
 鈴木善幸および内閣が、日米同盟の共同声明の解釈を巡り二転三転するのに反発し、辞表を提出した。

 7月 1日
 団体職 / 日本土壌協会会長に再び就く。

 この年
 団体職 / 日本塩工業会会長に就く。

昭和57(1982)年

 団体職 / 日中民間人会議日本委員会代表に就く。
 団体職 / 日本パキスタン友好連盟会長に就く。

昭和58(1983)年

 12月18日
 第37回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、7期目)

 この年
 団体職 / 日本エジブト友好協会会長に就く。

昭和59(1984)年

 団体職 / 日中友好議員連盟会長に就く。
 団体職 / アジア・アフリカ問題研究会会長に就く。

昭和61(1986)年

 7月6日
 第38回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、8期目)
 党職 / 自由民主党 政務調査会長(第32代)に就任。

昭和62(1987)年

 10月
 党職 / 自由民主党政務調査会長(第32代)を退任。
 党職 / 自由民主党総務会長(第30代)に就任。
 引き続き党三役の一角を占め、重鎮として能力を発揮する。

 この年
 団体職 / 福島県土地改良事業団体連合会会長に就く。

昭和63(1988)年

 団体職 / ユニセフ議員連盟会長に就く。

平成元(1989)年

 党職 / 自由民主党 総務会長(第30代)を退任。
 リクルート事件で竹下首相が退陣し、金権腐敗に縁のない清廉な伊東に、派閥を超えて総裁を要請される。
 国政を憂い、就任の条件として、リクルート事件に関与した党幹部全員の引責辞任を求めた。
 竹下首相、中曽根前首相、安倍幹事長らに役職だけでなく、
  「一度 議員バッジを外し、けじめをつけるべき
と迫ったが、保身を図るだけで誰1人として責を取る者はいなかった。
 今に伝わる名句、
  「本の表紙を変えても、中身を変えなければ駄目だ
の苦言を呈し、総裁就任を頑なに固辞することとなる。
 一般的にいわれている「総理就任を断った」ではなく、伊東は大改革へ挑戦したのである。
 結果として、「実権のない名目上の総理大臣になる」ことだけは受けなかった。
 権力をイメージする「総裁」の役職名を、「代表」にすることも決めていたという。
 この時点で変わっていれば、その後の自民党の体たらくは無かったという人は多い。

 この件については寡黙だったが、翌年に発行された母校「会津高等学校百年史」に、当時の心境を語っている。
  「〜〜 自己の主義主張を曲げることなく信念を貫いて行動したものであり、いささかも恥じることではありません。 世渡りは下手ですが、一人りくらい愚直な人間がいても良いと思っております 〜〜

平成2(1990)年

 2月18日
 第39回衆議院議員総選挙で当選 (福島2区、9期目)

平成3(1991)年

 10月
 政治改革本部長を辞任。

平成5(1993)年

 体調不良により、第40回衆議院議員総選挙に不出馬。
 政界を引退した。

平成6(1994)年

 5月20日
 東京都内の自宅にて、肺炎のため死去。
 「竹を割ったような人」とも評され、最後まで会津の教え 「ならぬことは、ならぬものです」 を信条として貫き通し、国民を心から思いやり、やさしい心で共感させ感動させ、腰のズボンのベルトに手ぬぐいをねじ込み、ぶら下げて執務をした硬骨で清廉のハト派議員の傑物は、この世を去った。
 享年81歳 (満80歳)。  「間雲院正義一徹居士」。
 墓所は、鎌倉霊園にある。

 大平首相の緊急入院で内閣総理大臣臨時代理を務めたが、周りから首相の部屋での執務を勧められても内閣官房長官執務室で仕事を続け、決して首相の席には座らなかった。

 首相になりたくてなれなかった者は多数いるが、首相になって欲しいといわれて断ったのは伊東正義だけである。

 党の三役を務めていた時でさえ、雨漏りする家に住むほど質素な生活を続け、業者から資金を集めたり利益を受けることは全くなく、金権政治には無縁のクリーンさを貫き通した稀有の政治家であった。

 死後、叙勲の話しがあったが、妻/輝子は、故人の遺志に反すると固辞した。
 全国から数多くの手紙があったという。
 夫人は、叙勲に賛成と反対の手紙を別々に入れる袋を設け、分別したという。
 賛成と反対の数は、拮抗していたそうだが、
  「夫を理解していた人は、ほとんどが反対だった
と後に語っている
 名の通り「正義(せいぎ)」を貫き通した会津魂/伊東正義の支持者も、同様に「正義」を通したのだ。

 「政治家は何になるかではない。何を為すかだ

 「道徳に古いも新しいもない。ダメなことは、いつの時代でもダメなんだ

 「米国などの市場原理主義は日本の風土に合わない。
  世界の中で生きるために競争に負けない仕組みは構築すべきである。
  しかし、争いを好まず、明日に枯れる花にも水をやる優しい心を持ち合わせる日本の伝統や文化を大切にする人間愛に満ちた政治でなくてはならない

伊東正義を伝える書籍

最後の会津人 伊東正義 − 政治は人なり [笠井 尚/歴史春秋社]

伊東正義先生を偲ぶ [伊東正義先生回想録刊行会]

産経新聞の特集記事

 死後11年を経て、産経新聞に特集記事が組まれた。
  ◇ 平成17年(2005年)3月15日(火)火曜日から3月25日(金曜日)
 要点だけだが、良くまとめられている。
 記事のサブタイトルについては、こちら。

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