飯田元火消屋敷 (藩士の謹慎地)

 山川大蔵が収容されており、藩の再興に尽力していた。
 いつしか藩士たちは、大蔵を「総督」と呼んでいたという。
 さすがに昼間の外出はできなかったが、会津藩に同情する役人も多く、夜間は難なくできたという。
 しかし、犬や猫を見つけると全員で捕獲にかかり、空腹を満たざるを得ないほど、実生活は窮乏していた。
 北海道への移住に応じ、会津から出向いた家族/数十戸も、一時ここに入った。
 西軍は会津の地を没収し、北海道4郡と入れ替えていた。
 その年の秋/明治2(1869)年には、見送ったという。
 下北への流刑が決まると、ここに1千名ほどが集められ、しばし居住した。
 今では、面影は何一つ残っていない。

 ▲(千代田区富士見町辺り 日本歯科医大から九段中等教育学校までの一帯)