「延文の板碑」と「暦応の古碑」

「延文の板碑」と「暦応の古碑」
延文の板碑
「延文の板碑」の説明文
暦応の古碑
「暦応の古碑」の説明文
 暦応の板碑とならんで立っている延文三年のこの板碑は、高さ二七六cm、最大幅六九.四cm、厚さ九cmで川越市最大の板碑である。 暦応の板碑と同様に、上部に種子キリークがあり、そのもとに、僧一、法師二、沙弥三二、尼二一、聖霊四、の合計六〇名が刻まれており「一結諸衆/敬白」とあり、文字通り結衆板碑である。
聖霊の四名は喜捨を募ってから板碑に刻むまでに故人になった人と思われる。 したがって完成までに少なからず歳月を費やしたことが考えられる。 暦応の板碑が喜多院の歴代の住職の名を記したのに対し、この板碑は、そのほとんどが沙弥と尼で、共に僧階は最も低く、僧、法師が導師となって、在俗の人々が結衆したことがわかる板碑である。
 昭和六三年三月  川越市教育委員会

 暦応の古碑として指定されているが、その実は「暦応□□□□□月十五日」の銘のある板石塔婆で、上部に弥陀の種子キリークを刻し下半部に五十二名にのぼる喜多院 (無量寿寺) の歴代の住職の名と見られる者を刻している。 喜多院の歴代の住職の名を知る資料は他にないので、この銘文が重要な意味を持つところから、県の史跡として指定になったものである。 梵字の真下中央に「僧都長海現在」とあるので、暦応 (南北朝時代初期) の頃の住職であったことがわかる。
 昭和五十四年三月  埼玉県教育委員会 川越市教育委員会
現地板より/会津への夢街道